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岩佐徹のOFF-MIKE

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放研時代・スポーツとの出会い~岩佐徹的アナウンス論35~         12/04/28

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・・・つづき

神宮での実況練習など


しかし、大学入学後のオリエンテーションで校舎をまわっていたとき、通りかかった
放送研究会の教室に呼び込まれて入会を誘われた瞬間、幼いころからの記憶の断片が
一度にフラッシュバックして、ためらわずに手続きをしました。
そして、発声練習に始まった週2~3回のレッスンを受けて行くうちに、先輩たちの
評価もよかったりして、ますます“アナウンサーになりたい”という気持ちは強固な
ものになって行ったのです。
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2年生になると、練習の成果を試すべく、当時の大きなテープレコーダーをかついで
神宮球場に行き、六大学野球を材料に実況の練習をやりました。
忘れないのはその年(1960年)の秋の慶早戦(慶応ではこう呼んでいました)です。
学生にとっては普段でも興奮する対戦ですが、早稲田が勝てば早稲田が優勝、逆に
慶応が勝てば両校による決定戦という、最高に盛り上がる対決になっていました。

早稲田が第1戦を制して王手をかけましたが、第2戦は慶応が取り返して1勝1敗、
さらに第3戦も慶応が勝って、ついに決定戦にもつれこんでしまいました。
その決定戦は引き分けに終わって、翌日 再戦とになり、もう そのころには
どちらの学生も“いけいけ状態”になっていて、試合が終わると、そのまま 翌日の
試合のために行列を作るという状況でした。

さて、決定戦の再試合は両校譲らず、迎えた延長10回裏、実況の順番が私のときに、
慶応はノーアウト満塁という絶好のサヨナラのチャンスをつかみました。
しかも、打順は のちに巨人に入った4番・渡海でしたから、テープレコーダーを
3塁側ダッグアウトの上において、オモチャのようなマイクをにぎりしめた私の声は、
この上なく上ずっていたと思います。ハハハ。
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このとき、早稲田の石井連蔵監督は、ライトとレフトを入れ替えました。
右打ち強打の渡海の打球はレフトに飛ぶ確率が高いと読み、肩の弱い伊田をライトに
まわしたのです。適切な際はいだったと思います。ところが、初球を打った渡海の
打球はなんとそのライトに飛びました。
3塁ランナーは、のちに阪神の監督になった脚の速い安藤統夫です。誰もが「これは
サヨナラ勝ちだあ、優勝だあ」と思ったそのとき、肩が弱いはずの伊田が素晴らしい
ボールをキャッチャーに返してホームを狙った安藤を刺しました。ダブルプレー!!

前後はともかく、「タッチアウトおーっ」という実況だけは、妙にぴったりと、まるで
プロのアナウンサーのように決まったことを思い出します。ハハハ。
結局、この試合も引き分け、レギュラーの3戦を含めると、実に6戦目で早稲田が
勝ってようやくけりがつきました。大学野球史に残る早慶6連戦です。
私にとっては、生で見たスポーツで初めて感動した試合でもあり、アマチュアながら
アナウンサーとして、部分的にでも実況がうまくいったという快感は忘れられない
ものになったのです。

スポーツとの出会い

スポーツとの最初の出会いは、小学校のころのプロ野球でした。
昭和20年の入学ですからすぐに終戦、ものが少ない時代で、遊びといえばメンコ、
べーごま、そして野球でした。すぐ上の兄が六大学野球に連れて行ってくれることも
ありましたし、 家から20分ぐらいの上井草球場でパ・リーグの試合があるときに、
外野の外側の土手をよじのぼって、タダで見たりした記憶があります。

また、夏の後楽園で行われる都市対抗野球は、父が“通し切符”をくれましたので、
連日 近くのパン屋でイチゴジャムをたっぷりぬってもらった食パン1斤を抱えて、
小学校3、4年生のころから、ひとりで通ったものです。
別府星野組、藤倉電線、熊谷組といった当時の強豪チームに声援を送り、夕方になると、
応援用にもらったウチワを5本、6本と抱えて帰りました。当時の我が家には山ほど
ウチワがあったものです。ハハハ。
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そのころ 学校の近くに、戦後派手なデビューをした青バットの大下弘が住んでいて、
私たちの校庭でシーズン前のトレーニングをしている姿が雑誌に載ったりしました。
生まれてはじめてみたプロ野球の試合で、大下がホームランを打ちセネタースが勝ち、
単純な小学生は大の大下ファン、セネタースファンになっていましたから その写真は
しばらく、私の宝物でした。

「将来何になりたいか」というテーマの作文では当然のように「職業野球の選手」と
書いたぐらいの野球少年でしたが、球場にはそうしばしば行けるわけではなく、まだ
テレビもなくて、頼るのはラジオだけでした。
見よう見まねでスコアブックをつけながら、志村正順さんをはじめとするNHKの
アナウンサーたちの名調子に耳を傾けた記憶が鮮やかによみがえります。
憧れの大下が、今も残る7打数7安打した試合も興奮しながら聞いたものです。

その後も、ヘルシンキのオリンピック、白井義男とダド・マリノによるボクシングの
世界フライ級タイトルマッチ、古橋広之進が1500メートル自由形で18分19秒の
世界記録を樹立した場面など、遠くの出来事をまるで目の前で起きているかのように
伝えるアナウンサーの声にイメージをふくらませて聞きほれたたラジオの全盛時代、
それに続いたテレビの登場が私のスポーツ熱に拍車をかけました。
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オリンピックやワールドカップはもちろん、興味が持てなかったプロレスをのぞく、
ありとあらゆるスポーツをテレビを通して楽しみました。
もちろん、そのころはまだ、そのラジオやテレビの向こう側、つまり送り手の側に
自分が回ることなど、想像もしませんでしたが。

つづく・・・
by toruiwa2010 | 2012-04-28 08:05 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(8)
Commented by ルナパークゴー at 2012-04-28 08:20 x
岩佐さん、おはようございます。
倉敷保雄さんも学生時代、東都大学野球の試合を全部実況練習していたと聞いたことがありますが、そういうものなのですね。
戦後日本のスポーツの歴史とともに歩まれている岩佐さんの話は非常に楽しく勉強になります。
Commented by toruiwa2010 at 2012-04-28 08:29
ルナパークゴサン、おはようございます。

倉敷サン・・・ほとんど聞いたことがなく・・・
直観的に苦手なタイプです。ごめんなさい。
謝ることはないけど。ハハハ。
Commented by ヤップンヤン at 2012-04-28 14:11 x
岩佐さん、当時は国民的スポーツとも言えたプロレスに興味がもてなかったのはなぜですか?
Commented by toruiwa2010 at 2012-04-28 14:59
ヤップンヤンサン、こんにちは。

そんなことを書いたら、読者・フォロワーを減らしますから
墓場まで持っていきます。ハハハ。
Commented by ヤップンヤン at 2012-04-28 15:42 x
岩佐さん、わかりました。岩佐さんの中では全日本女子プロレス、例えばビューティーペアの実況はありえなかったわけですね(笑)。
Commented by toruiwa2010 at 2012-04-28 16:10
ヤップンヤンさん、女子プロレスは
日テレOBだった志生野温夫さんが
おやりでしたが、私は、とても、あの
テンションではしゃべれません。ハハハ。
Commented by 赤ぽん at 2012-04-29 01:13 x
岩佐さん、こんばんは。
スポーツとの出会いの項目を読んでいて、ふと亡き父の事を思い出しました。
生まれも育ちも東京で昭和ひとケタの父は、若き岩佐さんと同じような
眼鏡をかけ
大の巨人ファンでした。特に長嶋の大ファン!母とのデートも当然後楽園球場w
そして私が生まれた時父は川上からとって「哲治」と名づけようとして母が猛反対w
(なぜか川上!長嶋はまだ若くなぜか茂雄とは付けようとしなかったらしい)
結局母が、自分が好きだった巨人の二塁手土屋選手の名前をつけましたw
(地味な選手だったとのこと、私は当然知りませんが)
そんな私が中学校でサッカー部に入り、父とスパイクを買いに行った時
淋しそうに「野球はやらないの?」と言ったひと言が今も心に残っています。
運動神経は良かった私を野球選手にしたかった父の事を、サッカー好きの私は
裏切っちゃったかな!?とちょっとだけ後悔したことを思い出しました。
でも、どうしても好きなサッカーがやりたかったのです私は…

若き岩佐さんの眼鏡姿を見ていると、少し似ている父を思い出します。
(個人的すぎのコメントですいません)
Commented by toruiwa2010 at 2012-04-29 06:08
赤ぽんサン、おはようございます。

私がメガネをかけ始めたのは高校2年でした。
病気療養中で、それほど度が強くないのに
看護婦さんに「似合うわよ」と言われてその気に
なってしまったのです。ハハハ。
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