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岩佐徹のOFF-MIKE

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異動、挫折、そして異動~岩佐徹的アナウンス論49~06/17

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・・・つづき

さらばフジテレビ・アナウンス部!


いいことも悪いこともあったフジテレビでのアナウンサー生活も次第に終わりに
向かっていました。どの時点で部長に申し出たのかは記憶がはっきりしません。
しかし、1970年代の終わりごろから、胸のうちにあった鬱積の量が少しずつ増し、
81年の夏ごろには、自分の中では「ダメだ。アナウンス部を出なければ」という
気持ちになっていました。

理由は些細なことでした。小さなきっかけは1978年のオフにありました。
中国地方のネット局に出向中の先輩に呼び出され、「うちに来ないか?キャスターを
やってほしいんだ。悪いようにはしないから」と誘いを受けたのです。
スポーツ・アナとして充実していましたから、丁重に断りましたが、フジテレビは
了解している話なんだと、あとで気づきました。

翌年1年間 メジャーを追いかけて過ごしたアメリカから帰国したとき、部長から
「来年もよろしくね」と言われたのです。
ホテル暮らしをしながら、街から街へ“漂流”した1年は精神的にもかなり苦しい
ものでした。いま 思い出せば“貴重な体験”ですが、帰国した直後はその辛さが
体中に沁み込んでいますから、翌年のことを軽い口調で言われてムッとしたのです。
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会社を留守にしている間にわけの分からないことが進行しているんだという不安が
頭に浮かびました。疑心暗鬼になって行きました。
「なぜ こういう扱いをうけるのだろう?」、「不要ということか?」、「なぜ 部長は
この話を俺にはしてくれなかったんだろう?」「俺をもう少し頼りにしてくれても
いいのに、なぜ?」…今、思えば、なぜ、そんなことが気になったのか、ですが。
ハハハ。

しかし、周りが見えなくなっていた私は「必要とされていない」、「嫌われている」、
「カヤの外に置かれている」という被害妄想的発想で、自分をどんどん追い込んで
しまったのです。周囲から見たら“病的”だったかもしれません。

…あの時ガマンしていたらどうなっただろうと考えることもあります。
逆に、未練たっぷりではあっても、あの時ふんぎりをつけたからこそ、結果的に
WOWOWでアナウンサー職に戻って67歳まで好きな道を歩き続けられたのだと
有難さを感じることもあります。
まさに「人間万事塞翁が馬」、「禍福はあざなえる縄の如し」です。
ええ、今だからこそ言えることですが。ハハハ。

異動先としてスポーツ部と報道部を挙げましたが、総務局長の「そういう理由なら、
ダイレクトでスポーツに行かせるわけにはいかない」の判断で、第2志望だった
報道センターへの異動となりました。
何をやりたいという具体的な希望はありませんでした。
しかし、ニュースを読むことは大好きで評価も悪くなかったと思っていましたから、
報道局へ行くことについて、抵抗はまったくありませんでした。

大波乱の報道部初日

1982年2月1日に辞令を受け取ったあと、1週間の休みを取り、報道部員として
初めて職場に行ったのは9日でした。
これが“波乱の初日”になるのですから、いかにも私らしいというべきでしょうか。
ハハハ。

ロッカーがアナウンス部のままになっていたので、そちらにコートをおきに行くと、
テレビの前に人だかりが出来ていました。
「日本航空のDC-8型機が羽田の沖に落ちた」というのです。
「えらい日に初出社になったなあ」と思いながら、報道局に行くと、M編集長が
ニヤニヤしながら「オイ、岩佐 、いいところに来た。特番の司会をやるか?」と
声をかけて来ました。語尾を挙げて意志を確認しているように聞こえても、これは
つまり「やれ」ということです。サラリーマンの世界では。ハハハ。
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なにしろ、アナウンサーを辞めたばかりですから しょうがないかと覚悟を決めて
「で、何時からですか?」と聞くと、「10時から」という答えが返ってきました。
その時すでに9時40分を過ぎていたのです! 
異動した部署への初出社ですからネクタイはしているからいいとして、あまりにも
準備時間がなさ過ぎると思いましたが、そこまで行って辞退することも出来ません。

日航機、羽田沖に墜落

とりあえず、ゲラ(通信社から刻々入って来る原稿)に眼を通し始めました。
しかし、事故発生から1時間足らずですから、飛行機が滑走路を目の前にした海に
“浮かんで”いること、その周りにはゴムボートなどが多数群がって救出活動が
行われていること…ぐらいしか伝えていません。
「現場には誰が行ってるんですか?」と尋ねると「向かっているけどまだ中継車も
到着していない」と言うではありませんか。

さらに「素材(写真やビデオなど、放送用の材料)は何があるんですか?」と聞くと、
「上空にヘリが行ってて、カメラマンの沢野君がリポートすることになってる」と
言われました。
「そのうち、いろいろ入って来るから心配するなよ」と慰めにもならない言葉を
背中で聞きながらスタジオに向かいました。
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前日、「ホテル・ニュージャパン火災」という大きな事件があったばかりでしたから、
冒頭のコメントを「昨日はホテルの大火災、今日は飛行機の墜落と首都・東京は
2日続きの大事件に揺れています」とするのに時間はかかりませんでした。
しかし、問題はそのあとです。

素材が限られていますから現場上空のカメラマンにリポートしてもら以外に時間を
埋める手段はありません。しかし、沢野カメラマンは初めての経験でしたから、
そのリポートは長くは続きません。短いやりとりを繰り返して懸命につなぎながら
時間をかせいで、原稿がそろうのを待った記憶がよみがえります。脇汗も。ハハハ。

次第に中継の体制が整い、そのままお昼のニュースまでなだれ込んで2時間…
それなりにうまくこなしたという充実感を味わいながらスタジオを出た時には、
「やっぱり、俺の本領はこういうところにあるんだよなぁ」という思いが改めて
襲って来ました。それと同時に、「新しい職場に移ったその日に、こんな後ろ向きな
気持ちになるようじゃ、先が思いやられるぞ」という大きな不安が頭をよぎった
“波乱の初日”でした。ハハハ。

つづく・・・
by toruiwa2010 | 2012-06-17 08:20 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(0)
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