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岩佐徹のOFF-MIKE

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異動、挫折、そして異動5~岩佐徹的アナウンス論53~07/01

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…つづき

逃げる


「もう一度、実況を…」という思いはなかなか叶わなかったものの、それなりに
充実した日々だった'87年夏、再び暗雲が垂れ込めてきました。
誰にでも「こいつとだけは絶対に仕事をしたくない」と思う人物がいると思います。 
まさにそういう男が上司として異動してきたのです!東大出身で4,5年後輩…
最悪、かつ、晴天の霹靂でした。
「報道時代の二の舞になる」と考えた私がとった行動は、データ作りに“逃げ込む”
ことでした。ダメなやつですよね。

気は強いほうだと思うのですが、性格が弱いのか、困難と正面から向き合うことを
避けてしまう傾向が、自分のキャリアを振り返ると明らかです。いま、気づいても
遅いんですが。ハハハ。
「しかし、こんなことは長くは続かないぞ」と考えていると、その年の年末近くに
部長が「だれかF1の面倒を見てくれるやつはいないかなあ」と言っているのが
耳に入りました。
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その年から放送が始まったF1の初代プロデューサーが、競馬や相撲などほかにも
仕事を抱えているために忙しすぎて手が回らないことから出てきた話でした。
逃げ場を探していましたから、「これだッ」と深く考えないまま飛びつきました。

しかし、2年目に入るF1はヨーロッパ・シリーズ用に小型の中継車を作るなど、
制作準備は煩雑かつ難解で、シロートが顔を突っ込んではいけない時期でした。
動機が“不純”な上に、人を束ねる能力がないことは、報道時代に痛い思いをして
分かっているはずなのに…。
まして、今度は億単位の予算を預かるわけです。番組制作のイロハも知らず、金の
管理までするなど、はじめから無理な話だったのです。

当然、動きの鈍い私に「MONDAY SPORTS WORLD」でコンビを組み、この時は
F1制作のチーフディレクターになっていた担当ディレクターも不信の目を向けて
くるし、散々でした。

KOパンチ

そんな中で迎えた'88年3月、ブラジル・リオデジャネイロでの開幕戦を前にして
決定的なダメージを受けました。
技術的なことも予算的なこともしっかり把握できないまま、「いつまでも、グダグダ
言ってたってしょうがないんだから、ここから性根を入れてがんばろう」と決めて
日本を出発し、リオデジャネイロの空港に着いた時、異変が起きたのです。

入国審査窓口の手前で落ち合って、一緒に出ようということにしていたのですが、
一人だけ遅れていました。降りてくる人がまばらになっても、まだ来ません。
おかしいなと思っていると、うしろから来た日本人の方が、「出口のところで誰か
倒れていましたよ」と伝えてくれました。飛んでいくと、その年からスタッフに
加わったディレクターのS君が倒れ、空港の職員に囲まれていました。
腹をおさえて、しきりに「なんなんだこれは!」と叫んでいました。

意識はあるらしいのですが、こちらの呼びかけには反応しません。飛行機の中では
ばらばらでしたから何が起きたのかさっぱりわからず、呆然とするばかりでした。
しかも、その場にいる職員たちはほとんど英語をしゃべらないために、まったく
コミュニケーションが取れません。
緊急事態だからと説き伏せ、到着ロビーで待っているはずのコーディネーターを
呼んでもらいましたが、すぐに連絡したという救急車がなかなか来ず、来てからも、
乗せて空港内の医療センターに運ぶまで、気が気ではない私たちにしてみれば、
途方もない時間がかかりました。
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気を利かせたコーディネーターが、手当てがすんだら、すぐにホテルに向かえる
ようにと、私とS君のパスポートを持って入国審査の窓口に行きました。
付き添いは私ひとりになり、しかも、手当ての間は処置室から出されてしまって、
何が行われているのかまったく分からないまま時間が過ぎていきました。

長い時間が流れたあとで出てきた若い医師が、その後合流したコーディネーターを
通して、「彼が亡くなった」と告げた時に何を思ったのか、今は思い出せません。
まるで、悪い夢を見ているような気分だったと思います。そして言葉に表せない
虚脱感で、しばらくは何をすべきなのか頭が働きませんでした。

帰国後、会社の医務室に報告に行くと、その時の様子を話しただけで、「典型的な
心筋梗塞の症状だね」と言われました。
空港で処置をしてくれたのは、死亡診断書を書くのも初めてという、経験の浅い、
若い医師だったのが不運だったかもしれません。
途中から加わった中年医師がてきぱきと指示を出すのが外からもうかがえただけに
「つくづく、Sは不運だった」と、そのときは考えていたのです。

しかし、遺体に付き添って帰国し、ご両親にお話しするのは責任者の自分だと決め、
7、8時間後に出発した折り返しの飛行機に乗って、経過を振り返ったあたりから
「俺がもっとがんばっていれば何とかなったんじゃないのか?」と、激しい悔いが
襲ってきました。
そして、成田から準社葬が行われる式場に直行して、ご家族の前に頭を下げたとき、
その悔しさは頂点に達して涙がほとばしりました。

「力が及ばずに申し訳ありませんでした」とお詫びする私に、ご家族は逆に慰めの
声をかけて下さったのですが、時間がたっても気持ちの整理はつきませんでした。
すべてが自分の責任とは思わないまでも、いつの間にか、「スポーツ部にいるのは
しんどいなあ」と考えるようになっていました。
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一方、第2戦との間があいたこともあり、この間にまたいろいろなことが起きて、
部下のディレクターたちの苛立ちが目に付くようになりました。
「これではうまく行かない。このままでは看板番組が空中分解してしまう」という
思いから部長に交代を申し出ることにしました。
部長も横から見ていて“危なっかしい”と思っていたのでしょう。案外あっさりと
認めてくれました。

しかし、次は「責任を投げだして、そのままスポーツ部に残ることはできない」と
、7月ごろになって「外に出たい」旨を申し出ました。このときも部長は、「分かった。
どこに行きたいんだ?」と、すぐに認めた上で、希望を聞いてきました。
「どこでもいい」が正直なところでしたが、同期入社の男が「日本衛星放送」に
長く出向していることを思い出し、「あそこはどうでしょうか?」と言ったところ、
とんとん拍子に運び、“9月から出向”でまとまったのです。
by toruiwa2010 | 2012-07-01 07:15 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(3)
Commented by ヤップンヤン at 2012-07-01 15:46 x
岩佐さんがプロデューサーではなくて、大川、馬場アナと同じ実況メンバーでだったらな…と思うことがあります。
Commented by toruiwa2010 at 2012-07-01 16:07
ヤップンヤンさん、こんにちは。

私は免許も持っていません。当然、メカのことなど
さっぱりわからず、実況など、とても無理です。ハハハ。
まあ、大川ぐらいならしゃべれたでしょうが。
おーい、大川、元気か?ハハハ。
Commented by ヤップンヤン at 2012-07-01 19:56 x
岩佐さんなら、しっかり事前準備をされて、難なくこなしてしまいそうな気がします。
こういったことが、WOWOWでの実況復帰の伏線になるのですから、人生というのはわからないものですね。
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