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岩佐徹のOFF-MIKE

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フジテレビ⇒WOWOW~岩佐徹的アナウンス論54~07/07

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・・・つづき

日本衛星放送へ


1988年8月31日、「綜合開発局付とし 日本衛星放送株式会社へ出向を命ず」との
辞令を受け、翌日から虎ノ門にあった同社に出向しました。
このときはそんな風には考えなかったのですが、これで、籍は残っているものの
25年半に及んだフジテレビ生活に“実質的な別れ”を告げたことになり、同時に、
現WOWOWとの長い“付き合い”が始まったのです。

実を言うと、自ら志望したにもかかわらず この会社が何をしているのか、初めは
よく知りませんでした。漠然と“衛星を打ち上げる会社”だと認識していたのです。
「だったら2、3年で戻れるかな」と考えていたのですからひどい話ですよね。
もちろん、出向が決まったあと前任者からレクチャーを受けましたから、新時代の
メディアとしてBS放送を送り出す会社だと分かっていましたが。ハハハ。
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もっとも、赴任当時は“打ち上げの準備”が主で、放送へ向けての具体的な準備は
ほとんど“手つかず”の状態でした。
配属先は「編成準備グループ」で、そこには東京のキー局から一人ずつ出向者が
来ていました。誰もが本社から「折にふれて報告せよ」と命じられていました。
たくさんの企業が、注目の衛星放送ビジネスに乗り遅れてはならじと、とりあえず
資本参加して様子を見ていたのです。ハハハ。

1年半ほどはやることがあまりない毎日で、雑談に飽きると、それぞれ出向元に
行ったり、映画を見に行ったり、どうやって時間をつぶすかが日々の課題でした。
初めのうちはみんなおとなしくしていましたが、ホワイトボードに「外 → NR
(外出、no returnの意味)」と書いて、街にさまよい出るようになるまで そんなに
時間はかかりませんでした。ハハハ。

時効でしょうから白状しますが、大相撲が始まるとほとんど毎日、幕内の中入り
あたりから家でテレビを見ていました。4時前後にはもう家にいたのです。
どんな番組を放送するかの検討が本格化したのは1990年8月に衛星の打ち上げが
成功したあとのことです。
“社内抗争”もあり、紆余曲折の末「映画・音楽・スポーツを番組の柱にする」が、
社内のコンセンサスになりました。

うかつなことに、このころまで「アナウンサーはどうなるのか」など考えもせずに
過ごしていたのです。しかし、「スポーツ」という言葉にはさすがに敏感でした。
「なに、スポーツ? それなら僕にもしゃべらせてよ」と、ようやく社業に熱心に
なったのですから、われながら現金だと思います。ハハハ。

チャンス到来!

私にとってはまさに“千載一遇”のビッグ・チャンスです。キーパーが倒れている
ゴール前でパスをもらったストライカーみたいなものです。ハハハ。
3本柱にスポーツ中継が入っている以上、アナウンサーが必要なことは編成準備
グループのメンバーは承知していますし、アテなどないのですから、ほぼ即決で
私が初代チーフ・アナウンサーに“就任”しました。

放送開始がいつになるかはっきりしないまま、スポーツ中継の中身をどうするかを
任されていた日テレからの出向者がアイスホッケーに執着していました。
権利を考えると、野球中継など、ほかのソフトはなかなか難しいからなのですが、
「ええッ? しゃべったことないし、長いブランクのあとでいきなり最も動きの
速い種目かよ」とは言えません。
“幸運の女神に前髪はあるが、その後頭部はハゲている”の格言どおり、これを
逃したら次のチャンスがいつ来るかは分かりませんからね。ハハハ。
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それから、せっせと日本リーグに通いました。東伏見、品川、新横浜…
はじめは、途方に暮れましたよ。
ご承知のとおり、この競技では試合中、いつでも選手交代が認められている上に、
消耗が激しいので40-50秒で交代するのです。
両チームの ゴールキーパー以外の40人の選手の名前を覚えるだけでも大変なのに、
リンクに出ている選手を全員把握する前に代わってしまうのですからお手上げです。
人の名前を覚えることが得意ではない私にとって、難しさは想像以上でした。

‘91年4月、そのころには編成の実権を握っていた男から指令が来ました。
「11月に試験放送が始まる。そこでオンエアすることにしたのでアイスホッケーの
世界選手権を見てきてほしい」。
スイスの古都ベルンで開かれた大会は、アマチュアの最高峰です。そのプレーを
見ながら私は「もうすぐ、実況の世界に帰れる」という喜びをかみしめていました。

ビデオを見ながら実況をつけたのは、それから5ヶ月後のことです。
ヘッドセット・マイクを装着したとき、さまざまな思いが駆け巡りました。
「遠い、遠い道のりだったなあ」…

'82年1月のバレーボール日本リーグ以来、8年9ヶ月のブランクが心配したほど
影響することもなく、収録は思った以上にスムーズに進みました。
私もかなりしつこい性格ですから、「いつの日か必ずマイクの前に戻る」という、
強い意志は失っていませんでした。もちろん、根っからのスポーツ好きですから、
家にいれば、常にテレビでスポーツを見ていました。

実況を聞けば、「自分なら、ここでこう質問するぞ」とか「今はその話じゃなくて、
こっちの描写をするべきだろう!」と、テレビに向かって突っ込んでいたものです。
それに飽きると音を消し、頭の中で“無言の実況”をしていました。
戻れるアテもないころからそんなことを続けながら、“むなしさ”を感じないでも
なかったのですが、苦ではありませんでした。

この作業を“シミュレーション”、“イメージトレーニング”と呼んでいましたが、
長いブランクのあと、久しぶりにマイクをつけたとき、違和感が少なかったのは
この未練がましい性格のおかげかもしれません。ハハハ。
このシミュレーションは大きな試合の前などは現役最後のころもやっていました。
むしろ、やらないと準備が完了しないという感じだったのです。

つづく・・・
by toruiwa2010 | 2012-07-07 07:30 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(0)
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