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岩佐徹のOFF-MIKE

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68年もたったのか…~鎮魂の思いを込めて~13/08/15

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昭和20年8月15日…日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した日です。
当時6歳の私は、この日を福岡県久留米市で迎えました。
東京大空襲のあと、父の弟(私の叔父)を頼って母と二人で世話になっていたのです。
両親揃って福岡の出身です。父は飯塚市で生まれ、嘉穂中学(現・嘉穂高校)を、
母は久留米で生まれ育ち、久留米高女(現・明善高校)を卒業しています。

そのころは、九州に大勢の親せきがいて、東京の小学校で入学式だけ済ませた私は
4月中旬に久留米に移りました。毎日新聞の記者だった父は東京に残り、長兄は
上智大学の学生のまま陸軍予備士官学校に入り、配属先の大洗に、次兄は岩手県に
学童疎開していて、母と私もまた東京を離れた…つまり、5人の家族が4ヶ所に
分かれたことになります。

それでも、戦争の本当の苦しさを理解できない私は、「空襲警報発令、空襲警報発令。
東部軍管区情報。敵B29が…」と告げるラジオのアナウンスを聴くこともなく、
空襲を知らせるサイレンが鳴ることもない静かな田舎町でのびのびと子供らしく
過ごしていたのだと思います。

九州に行ったのは東京から遠ければ遠いほど安全だろうという理由からでしたが、
3月の大空襲の直後には伊豆の伊東に知人を訪ねています。母が実の母親同様に
慕っていた女性がそこに疎開していて、声をかけてくれたのです。
東京から有蓋…つまり屋根のついた“貨物列車”に揺られて行った記憶があります。
戦争末期でしたから、珍しいことではありませんでした。

小さな川の向こうに建つ別荘風の家にその人は住んでいました。木製の橋の手前に
私を残して、母が挨拶をしに行きました。
しばらくして戻ってきた母が言ったのは「東京に帰ろう」でした。
母に声をかけてくれてから少し時間が経過していて、その間に女性は病気で倒れ、
私たちを受け入れる状況ではなくなっていたのです。

すでに暗くなりかけた道を駅に戻る途中で、通りかかった人が声をかけてきました。
駅近くの郵便局の局長でした。「この時間から東京に帰るのは大変だ」と心配した
その人は私たち母子を自宅に招き、奥さんに言って温かい食事を振舞ってくれた上、
「泊まっていきなさい」と言ってくれました!
敗戦が濃厚になり、人々の気持ちがすさんでいたときに出会ったこの人の親切を
ずっと忘れることができません。「今、誰に一番会いたいですか?」と聞かれたら、
真っ先にこの人を挙げるでしょう。

一度、東京の家に戻ったあと、「いよいよ、危ないから」と、父に説得された母は
九州に行くことを決めました。彼女にとって厳しい状況の中、故郷に向かうのは
初めてのことではありません。

1923年の関東大震災のとき、母のおなかには長兄がいました。
東京の下町で暮らしていた母は妊娠4ヶ月の体で混乱の東京をあとにして福岡に
帰ったのです。知人に見送られて東京駅から乗車するとき、窓から入ったそうです。
しかも、それから数ヶ月後、朝鮮(当時)に行って長兄を出産しています。
戦後、“靴下と女性が強くなった”と言われますが、明治生まれの女性の強さたるや
そんなものではありません。

東京に残った父が、どこでどう暮らしていたかは聞いたことがありません。
息子が言うのもなんですが、粋筋の女性に結構もてたらしいですから、聞かなくて
よかったかもしれません。
父は日本軍がまだ各地で勝利していたころフィリピンのマニラで暮らしています。
日本軍占領下のマニラで宣伝工作の一環として新聞を発行するためでした。
行きたくなかったそうですが、どうも、前の任地である名古屋で何かマズイことを
やらかしたらしく、その懲罰でもあったようです。

しかし、たった半年で戻されています。検閲の墨で紙面を真っ黒に塗りつぶされた
新聞を発行するのが我慢できず、マニラ湾を見下ろすホテルの部屋で酒びたりに
なっていることを部下に“ちくられた”かららしいです。
普通、大酒飲みは救いようがないものですが、彼はそのおかげで命拾いしたのです。
数か月後“I shall return”のマッカーサーがフィリピンに再上陸し、追い出された
後任の記者たちは密林に逃れて数ヶ月を過ごすことになったのですから。

8月15日正午から放送された天皇陛下の玉音は聞いた記憶がありません。
しかし、たぶん、お昼ごはんのために遊びから家に帰る途中だったと思いますが、
道端で自転車を止めた数人の女性が立ち話をしているのに出会いました。
会話の中に“天皇陛下”という単語が何度も出ていたことは覚えています。

ようやく戦争が終わったというのに、それから数週間後、世話になっていた叔父が
急死しました。酒好きだった彼は危険を承知でメチルアルコールを飲んだのです。
戦争末期には、“普通の酒”はとても手に入らなくなっていたため、酒飲みたちは
さまざまな“酒らしきもの”を飲んでいました。真偽のほどは分かりませんが、
ドラム缶詰めの航空機の燃料にまで手を出したという話も聞きました。

葬儀をすませ、参列のため来ていた父とともに東京に戻ったのは9月の初めです。
やがて、真っ黒に日焼けした次兄が疎開先から戻り、前線に行くこともないまま
除隊した長兄も帰ってきました。そもそも、すでに基地には火器も弾薬類もなくて
出兵など考えられない状態だったそうです。
こうして、ほぼ1年ぶりで杉並区三谷(現・桃井)の家に家族全員が揃いました。

当然、食べ物が乏しく、母は育ちざかりの子供を抱えて大変な苦労をしたはずです。
大きなリュックを背負って遠くまで“買い出し”に出かける後ろ姿を思い出します。
着物などを持参して農家を訪ね、物々交換で米や野菜を分けてもらうのです。
当時の母親はみんなそうだったでしょうが、苦労して手に入れた食糧は子供優先で
自分はお釜や鍋の底をこそぐようにして食べていました。

それでも、十分な栄養を得ることはできなくて子供たちも痩せこけていました。
しかし、気の毒だったのは母です。数年後、上の歯をすべて失いました。原因は
歯槽膿漏でした。栄養が不足していたのだと思います。
情けないことに、そして、申し訳ないことに、まだ40代半ばでオシャレが好きな
母がどれだけ悲かったか…と思うようになったのは数十年後のことです。

私達は定期的にシラミ退治のDDTの粉末で頭を真っ白にして家に帰っていました。
近くの青梅街道を走るMP(進駐軍の憲兵)が乗ったジープには、長いアンテナが
揺れていて、子供たちは「悪口を言うと、全部聞かれてしまうぞ」と、車を見ると
急に声をひそめたりしたものです。中には悪事を働く者もいたでしょうが、米兵は
おおむね、子供に優しく接し、ガムやチョコレートをくれたりしました。
しかも、英語を話せる兄が基地内のPX(日用雑貨の売店)に就職し、話を聞く機会も
ありましたから、私にとって彼らは怖い存在ではありませんでした。

そんな子供時代はあっという間に過ぎ、戦争の記憶も急速に薄れていきました。
常に母が“盾”になっていたのですべての経験が直接的ではなかったからでしょう。
もともと、私の世代の戦争体験は大したものではありません。戦争の本当の怖さ、
悲惨さを“肌で”知っている人はだいぶ少なくなりました。
毎年、この時期になると、さまざまな番組が作られて語り継ぐ努力がなされますが、
若い世代にどれだけ伝わるのか不安です。


父は1988年に亡くなりました。
1900年…19世紀最後の年に生まれた父の夢は100歳まで生きることでした。
2001年を迎えれば三世紀を生きたことになるからです。夢はかないませんでした。

関東大震災を経験した母は、72年後、芦屋で阪神・淡路大震災に遭遇しています。
もっとも、導眠剤を服用していてまったく気付かずに眠りこんでいたようです。
妻によれば、父の死後、関西に移り住むことにした理由の一つに「地震が怖い」が
あったようですから、“もっけの幸い”だったかもしれません。
その母が亡くなったのは2003年です。98歳でした。

長兄は89歳、次兄は79歳、ともに健在です。私は間もなく後期高齢者になります。

2013年8月15日。
あの日から68年が過ぎました。
by toruiwa2010 | 2013-08-15 09:22 | 岩佐徹的考察 | Comments(12)
Commented by Yumi at 2013-08-15 13:20 x
ご両親が福岡出身とは!世代が母とほぼ同じで(1つ下です)、母の記憶も岩佐さんと似たようなものです。なので、2006年、私の初めての広島訪問に同行、一緒に自分と同世代の被爆者の方々の話を直接聞いて、私とは違ったショックを受けたようです。彼女の中では幼い頃に戦争は終わっていました。でも話を聞いた被爆者の方の戦争は終わる事無く続いていたのです。それ以来、長崎、沖縄と一緒に旅をして、私の活動の一番の理解者です。その反面、父は生きていれば82歳。学徒動員されていたので、当時のひもじかった話など酔うとよくしていました。うるさいオヤジ、と思っていましたが、その話が今では貴重な体験談に(笑)。ちなみに母も東京住まいでしたが空襲前に疎開して助かりました。戦争体験者でも、疎開して食べられるようになって良かった、という人もあれば、いじめられ、ひもじくて、本当に嫌な思いをした人もいて、本当に人生にドラマありと思います。そしてアメリカでは親戚の伯父さんがパール・ハーバーで亡くなったという人や、父親が沖縄戦で戦い子供の頃「引き出しには骸骨があるぞ」と驚かされて怖かった思いをしたという友人がいたりと、様々な話を聞きました。
Commented by toruiwa2010 at 2013-08-15 13:43
Yumiさん、こんにちは。

年配者でも、経験の中身はいろいろです。
私は空襲のときに防空壕に逃げ込んだこと、
記事に書いた疎開、どこかに、学校から帰る途中、
艦載機から逃げたこと…ぐらいです。

お父上が生きていれば82歳・・・
私の5歳上ですね。まさか、父親の年齢を
間違えるとは思いません。
とすると、終戦時11~12歳ですね。
そんな年齢で学徒動員に駆り出されていたのか・・・
事実だとすると、暗澹たる思いです。
疑うわけじゃないですが。ハハハ。
Commented by S_NISHIKAWA at 2013-08-15 14:02 x
岩佐さんが久留米にいらっしゃった時期があったとは。私が生まれた地でもあります。
当時のお話をお聞きする機会も減りました。語り継いでいかなければいけない私たちの世代は戦争を経験していません。だからこそお話をお聞きし、少しでも語り継いでいきたいと思います。
ありがとうございました。
Commented by toruiwa2010 at 2013-08-15 14:12
S_NISHIKAWAさん、こんにちは。

記憶が多少前後していますが、戦争末期には
大分・佐伯、久留米、飯塚を転々としていました。
Commented by Yumi at 2013-08-15 16:20 x
岩佐さん、良い指摘ありがとうございます。学徒動員ではなく、勤労奉仕だったかもしれません。記憶が薄れているので、母に聞いてみます。

ちなみに九州出身の戦前の父、東京出身の戦後の母の家庭内バトル!!というか、ほとんど国際結婚みたいな感じでした(爆)。
Commented by toruiwa2010 at 2013-08-15 16:41
九州生まれの男と東京出身の女・・・
これで、お母さんが気の強い女性だったら
目もあてられませんね。ハハハ。
Commented by H.N. at 2013-08-15 17:51 x
5-6年前からいつもいつも拝見させて頂いているテニスファンです。うちは父親が明善高校出身で母親が嘉穂高校出身です!逆ですが奇遇すぎてビックリしました。両校とも昔からの名門みたいですね。
Commented by toruiwa2010 at 2013-08-16 06:09
H.N.サン、こんばんは。

それはまさに奇遇ですね。
私の父は嘉穂中学では問題児だったらしいです。
本人が言ってましたから確かです。ハハハ。
Commented by ナオ at 2013-08-16 11:48 x
こんにちは。
毎日暑い日が続いておりますね。

母が盾になって・・の箇所を読んで、とても心に残りました。

自分が異常事態の状況に置かれた場合に
子どもを一番に考えて守りきることが出来るのか。

そんなお母さんになれるのか、難しいところです。(修行中)
「片づけなさい」「勉強をしなさい」こんなこと言うのは
簡単なのですが・・・。
Commented by toruiwa2010 at 2013-08-16 15:13
ナオさん、こんにちは。

母は強し、、、です。
間違いありません。
と言うより、女が強いのですが。ハハハ。
Commented by トンボ at 2013-08-17 00:28 x
貴重なお話をしていただき心より感謝いたします
私もすでに他界した昭和10年生まれの両親、その祖父母から、戦争や大震災の話は幼少の頃より聞かされてきました できることなら子供の自分ではなく、現在の自分で今一度当時の話を聞いてみたかった、そう思います
実体験のない者が語り継いでゆく、そのためには機会があればいろんな方の話に耳を傾ける、そんな思いを新たにさせてもらえた気がします
本当にありがとうございました
それにしても時代によって人間の人生とはなんと違うのだろうか、そんな思いで一杯です なぜか涙が流れてきました
Commented by toruiwa2010 at 2013-08-17 07:52
トンボさん、おはようございます。

私ですら、戦争を語るとき、経験として
語ることにはためらいがあります。
そして、思い出すのもこの時期だけだったりします。
なかなかむつかしいですね。でも、
伝えることは大事だと思います。
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