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岩佐徹のOFF-MIKE

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7年前の落選&3年前の決定 自薦・厳選300? 16/23/11

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東京 落選!残念

2016五輪はリオで~( 2009.10.03 初出 )


2016年のオリンピック開催地はブラジルのリオ・デ・

ジャネイロに決まった。

南米で初めて開かれるオリンピックになる。

コペンハーゲンでの東京のプレゼンテーションを見た。

15歳の体操少女に始まり、鳩山首相、石原知事、みんな、

がんばったとは思うが、鳩山首相は、なぜ、左下方向を

あんなに意識していたのだろう。プロンプターにしては

位置が悪すぎる。頼った結果、表情が暗かった。

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ほかの都市のプレゼンはほとんど見せてくれなかったから

どんなものだったのか分からないが、そもそもIOC委員は

プレゼンを見て考えを決めるものなのだろうか。

昨日を迎えた時点で大半がすでに投票先を決めていたはず。

つまり、東京の“落選”は昨日以前に決まっていたのでは

ないかと思う。


リオには一度だけ行った。その思い出にはつらいものがある。

1988F1開幕戦がこの地で行われ、新米プロデューサーは

スタッフとともに、ロス経由で26時間かけて乗り込んだ。

リオ・デ・ジャネイロ空港で飛行機を降り、集合場所に決めた

入国審査前のスペースで待っていると、一人だけ来ない。

あとからきた日本人客の「出口で一人倒れていた」の声に、

急いで駆けつけると、Sディレクターが身体をくの字に曲げ

「痛い、痛い。何なんだ、これは!」と叫んでいた。


およそ1時間後、彼は空港内の医務室で息を引き取った。

心筋梗塞だった。

責任者でもあり、妙になついてくれていたこともあり、遺体に

付き添って帰国し、家族への説明をする役は自分だと判断した。

その夜の便に乗ることを決め、とりあえず、ホテルに入った。

すぐ、町に出て棺を買い、遺体がスムーズに出国できるよう、

日本大使館に手配を依頼した。

コパカバーナの海岸に面した部屋で2時間ほど睡眠をとり、

到着から10時間後、乗ってきた飛行機で帰国した。


死亡診断書を初めて書いたといういかにも経験の浅そうな医師の

説明を聞きながら覚えた“虚脱感”は今も忘れない。


2012年がロンドン、16年はリオか。

2020年には82歳になっているし、深夜にテレビを見る元気は

もう、ないだろう。オリンピックをリアル・タイムで楽しめるのは

北京が最後になるのかなあ。


*あまりにも短いので、わずか3年前の記事だが、

東京2020が決まった日のブログも再録しておく。

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TOKYO2020決定!

~素直に喜びたい~13/09/09


09/08のツイート


2020オリンピックは東京に決まった。

素直に嬉しい。誰もが心から喜べる環境の

中での決定でないのは残念だが、きっと

「やってよかったね」となる。

そう信じてほしい。そして、メディアも国民も

震災を、被災者を、原発を忘れないことだ。

両立はできるはずだ。

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半世紀以上前、64年のオリンピック開催地が東京に決まったときの記憶はない。

1950年代の後半だから日本はまだ敗戦の痛手からの復興途上だったはずだ。

国中がわいたに違いないのだが、断片的な記憶しかない。

たとえば、高速道路が整備され、東海道新幹線が開通した。

羽田線ができて羽田空港から河田町の局舎まで「今日は13分で帰って来た」と

車両部の若いバイク・ライダーが興奮していたのを思い出す。

そう、あのころの東京は街中が舞い上がって、一種の“躁”状態だった。


19641010日。

前夜の東京は土砂降りだったが、朝にはすっかり上がり上空は絵に描いたような

“日本晴れ”だった。

開閉会式の入場券ははがきによる抽選でしか手に入らなかったが、運よく開会式の

抽選に当たった。そして、開幕が近づいたころ、新聞社の役員をしていた父が

「おい、もらったけど、要るか?」と言って開閉会式の入場券を見せた。

当然、もらった。ハハハ。


さらに、大会が始まったあと、配属されていた「オリンピック放送実施本部」で

さまざまな入場券の抽選会があり、そこでも閉会式のチケットを手に入れた。

おかげで、開会式も閉会式も夫婦そろって見ることが出来た。席は別々だったが。

そのころは、“持っていた”んだね。ハハハ。


フジテレビ入社2年目の新米アナはメダリストへのインタビューやニュース原稿を

読むぐらいしか仕事がなかったから、胸躍るような選手の入場行進も、坂井義則が

聖火を掲げてホームストレートを美しいフォームで走るところも、閉会式の最後に

派手に打ち上げられた美しい花火も存分に楽しむことができた。


列島が興奮する中で大会は幕を閉じた。大成功だったし、敗戦後わずか19年で

それをやってのけた日本を世界は称えてくれた。

為替レートが1ドル=360円、海外旅行がまだ少なかった時代に多くの外国人が

訪れて日本を知ったし、日本人も外国を知るいい機会になった。


スポーツも飛躍的に盛んに行われるようになった。それまで“日陰”の存在だった

レスリングや重量挙げなどにも国民の目が向くようになった。

中でも象徴的だったのはサッカーだ。

当時はマイナー・スポーツだったが、Jリーグの前身、日本リーグが1965年に

立ち上げられたのもオリンピックと無縁ではないはずだ。現在の“隆盛”を見ると、

創設のころの西が丘競技場などが懐かしく思い出される。閑古鳥が啼いていた。

スタンドで実況する声が選手に聞こえるんじゃないかと心配したほどだ。ハハハ。


外国で行われるオリンピックでさえ人々の関心は高い。時差があっても気にせずに

テレビの前で応援する。まして、肌に触れる感覚で見られる地元での開催となれば

興奮も関心もけた外れに高まるはずだ。2002WCでも経験しが、国がひとつになる

感覚は貴重だと思う。

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激戦と伝えられていた招致レースを勝ち抜いて東京に決まったことを喜びたい。

56年ぶりのオリンピック開催を巡ってはさまざまな意見があった。

多くは、大震災があって、原発事故の収集もままならない中でオリンピックに

大金を投じている場合ではない…だった。


私の思いは“福島は福島として対応しつつ、オリンピックは来てほしい”だった。

“経済効果”はせいぜい大会までの話だが、子供たちの目をスポーツに向けさせる

キッカケになることは長いスパンで将来の日本に大きな財産になるからだ。

まさに、今回の招致運動の基本理念、“Sport for Tomorrow”だ。

よって、福島があるからオリンピックはノーという議論には反対だった。

何かというと、福島や被災者を前面に出すもの言いは、もしかすると、相手に

失礼かもしれないし、あまり好きじゃない。


先日のブログにこう書いた。


すでにボールはIOC委員に渡っています。

どこにそのボールが投げられるかを静かに待ちましょう。


…ボールは“東京”に戻ってきた。

これから東京がやらなければいけないのはこのボールを“生かす”ことだ。

「自分が責任を持つ」と言い切った安倍首相はその言葉を忘れないでほしい。


そして、決まったのだから、ここからは国民が力を合わせてTOKYO2020

成功させたいものだ。

私? 7年後は82歳だから、生きているかどうかも分からない。健康に気をつかい、

なんとか“その日”を元気に迎えたいと思う。辛口も健在だといいけど。ハハハ。

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by toruiwa2010 | 2016-12-11 07:52 | 自薦・厳選300? | Comments(0)
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