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岩佐徹のOFF-MIKE

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東日本大震災&同時多発テロ~アーカイブから~17/09/10

6ヶ月&10年が過ぎた

~大震災と同時多発テロ~( 2011.09.11 初出 )

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地震が起きたときに「あ、これはちょっと…」と わずかでも

恐怖を感じたのはあのときが初めてだったような気がします。

311日午後246分、私は昼寝から目覚めたところでした。

揺れ始めたことで目が覚めたのかもしれません。

初めは「すぐ収まるだろう」とタカをくくっていましたが、

2分半から3分は続いていました。とても長く感じました。

不気味に揺れが続くうちに「これは…」と思い始めたのです。

震度5強の東京でさえそう思ったのですから、震度7だった

被災地のみなさんがあの時間をどんな気持ちで過ごしたかは

想像できません。

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直後に海岸地帯を襲った巨大津波。

メディアだけでなく、個人が撮ったビデオが自然の恐ろしさを

細かく記録していました。夕方から夜、そして翌朝…繰り返し

流されるその映像を前に言葉を失いました。


ビジュアルとしては、震災から2ヵ月半後に、駆け足で訪れた

被災地の様子がダブります。巨大な龍のように津波が走って

行ったあとが戦争直後の焼け野原のようになっていた名取、

あまり被害の跡が見えない駅前から少し車で走っただけの

港に破壊し尽くされた建物群が残されていた石巻、何棟かの

ビルが根こそぎ横倒しになり、鉄骨だけになった3階建ビルの

屋上に乗用車が裏返しになって乗っているのが見えた女川港…

“自然の猛威”や“津波の恐ろしさ”と 文字にしただけでは真実が

伝わらない光景がありました。

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今でも、そのとき目にしたものはときどきよみがえります。

こわいのは 正直に書くと、しだいに“遠い”できごとになろうと

していることです。

頑張ってほしいと願う気持ちも、応援する心も、変わらずに

持ち続けているつもりです。“他人事”というのではないのです。

しかし、半年が経過したいま、本当の意味での当事者ではない

“もどかしさ”を感じます。


それは、政府・行政の動きが相変わらず鈍いこととも関係が

あると思います。菅政権の対応がもっと素早く、被災地からの

復旧・復興のつち音が伝わってきていれば、今頃、日本全体に

“前向きな”明るい空気があふれていたはずです。

風貌にだまされているかもしれないと思いつつ、野田新総理の

人柄には、少し期待を持ちました。

しかし、では、“テキパキ”と復興が進み始めたか…と言えば、

そうではありません。

菅前総理は、「お盆までには全員を仮設住宅に…」と大見得を

切っていましたが、いまだに、避難所での生活を続ける人々が

6000人いるそうです。要介護者が30%増えた、と聞きました。


もちろん、国を預かる立場が難しいことは分かります。

私たちが口で言うほど簡単ではないのでしょう。

それにしても 鉢呂大臣の愚かな発言は論外として、流された

家や店を建て直そうと思っても、国や県の方針が決まらないと

実行に移せない、風評被害によって、福岡で予定されていた

「ふくしま応援ショップ」のオープンが中止になった、丹精を

込めた野菜が、牛が出荷できるかどうかは放射線量の計測の

結果が出ないと分からない…これだけ理不尽な目に遭っても

じっと耐え続ける東北の人たちの我慢強さには感心しますが、

もっと怒ってもいいのではないでしょうか?

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野田政権は「福島の再生なくして日本の再生なし」などと、

“キャッチコピー”を口にして悦に入っている場合ではないと

思います。議論をする、法を整備する…それも大事でしょうが、

新総理がやるべきことは、その中で、被災者の胸に“明かり”が

ともるような手を打って行くことです。


乱暴な言い方をすれば 何でもいいのです。

忘れられている”“見捨てられていると感じ、それでも耐える

人たちに、「政府は自分たちのことを考えてくれてる」と感じて

もらう“何か”をすることです。

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震災が発生したとき、現地には雪が残っていました。

朝の気温が零度以下になることもしばしばでした。

短い春が過ぎ、猛暑の夏を越えて、いま、秋を迎えています。

東北の冬はきっと駆け足でやってくるのでしょう。それまでに、

被災地の人々が、はっきりと“明日への希望”を抱いていられる

ことを心の底から祈ってやみません。



時差の関係で、アメリカ東部が911日の午前846分を

迎えるのは今夜です。

10年前、全米オープンが終わって2日たったその日そのとき

チェックアウトのため、ホテルのフロントに並んでいました。

世界貿易センタービルに飛行機が衝突した初め、それだけを

聞いたときは“小型飛行機”だと伝わっていました。

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それ以上の情報は持たぬまま、ホテルの前に出てスタッフが

集まるのを待ちました。

空港に行くのに予約してあったミニバスがなかなか来ません。

このとき すでに市内でも渋滞が始まっていたのでしょう。

このままでは飛行機に間に合わないと思い、プロデューサーと

相談して、タクシーで空港に向かうことにしました。


最初のタクシーに乗ったのは柳さんと私、たまたまそばにいた

女性スタッフ、Hさんの3人でした。

マンハッタンから“出て行く”道の渋滞はそれほどでもなく、

順調に走った私たちの車は何事もなく クイーンズボロー・

ブリッジを渡りましたが、このとき、警察官が検問の準備を

始めているのが分かりました。


タクシーの中でラジオが聞こえていたはずですが、私の耳では

早口の英語をとらえることはできず、この時点でも「旅客機が

ぶつかったらしい」程度の情報しか得ていなかったと思います。

フリーウェーから、遠くに、WTCのビルがベージュ色の煙に

包まれているのを茫然と眺めながら、空港に向かったことを

思い出します。

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私たちが通過して間もなく、マンハッタンへの出入りが完全に

禁止され、スタッフと離れ離れになってしまいました。

そのあと、空港は閉鎖され、私たち3人は空港近くのホテルに

泊まることになりました。

問題がありました。Hさんは妊娠2ヶ月でしたが、私たちに

割り当てられたのはたった一部屋だったのです!


キングサイズのベッドと貸出し用のエクストラベッドを前に、

どうしたものか 迷いました。家族でもないのに、同じベッドに

寝るわけにはいきませんから。ハハハ。

しかし、私たちが困っているのを見たHさんが「端と端なら

いいですよ」と言ってくれました。

体が小さくて寝相もよさ“そうな”柳さんにベッドを譲り、私が

エクストラに寝ることで一件落着となりました。


晩御飯はホテルのレストランで食べました。

連絡がついたプロデューサーが「代金は会社がすべて持つと

言ってますから、おいしいものをいっぱい食べてください」と

伝えてくれましたが、残念なことに、顔ぶれは少食の柳さん、

華奢な体つきのHさんに加え、私も大食漢ではありません。

しかも、3人とも酒はほとんど飲まないのです。

せっかくの“お墨付き”なのに惜しいことをしました。ハハハ。

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“激動の一日”…疲れが出たのか、柳さんは部屋に戻るとすぐ

横になり、私たちも睡魔に勝てず早々とベッドに入りました。

…エクストラベッドは湿っぽい匂いがして嫌な予感がしては

いたのですが、夜中に猛烈な“かゆみ”で目が覚めました。

案の定だったのです。ハハハ。


…しかし、3000人を超える死者を出したこの“同時多発テロ”で

私たちが受けた実質的被害はそれだけでした。生命の危険を

感じた瞬間はありません。

それでも、発生時に 現場からわずか数キロのところにいた

ということで、この出来事の記憶が薄れることはありません。

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あの日から10年がたちました。

写真は“9.11”の朝、Hさんのお腹にいたお子さんです。

10年という時間の長さを表していると思います。


by toruiwa2010 | 2017-09-10 08:09 | アーカイブから | Comments(0)
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