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岩佐徹のOFF-MIKE

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残念でした 村上春樹 1~アーカイブから~17/10/07

今年もまた、村上春樹はノーベル文学賞を取れませんでした。

かねてから、あまりの高評価に疑問を持っている私の感想は

「まあ、そうだろうね」です。「1Q84」を読みましたが、賞に

値するとは思っていないので。

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疑問の点や、ひねくれ屋のいちゃもんは何度か書いています。

この3連休にまとめて更新します。御用とお急ぎでない方は

ご一読を。純正・ハルキストや準ハルキストは読まない方が

いいと思います…そう警告しておきます。

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論破してやる、などと力まないことです。“言うだけ無駄”と

あきらめるのがベストです。ハハハ。

ちなみに、ビートたけし大先生も先日、「アイツの本なんて、

大したこと書いてねえ」と言っておられました。ハハハ。


“村上春樹「1Q84 」を読む~

げに 純文学とはややこしきもの~( 2009.07.10 初出 )

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・投げた石が必ず落ちるように俺は確実に死ぬ。

・が、テストを受けなければ、今全身をわし掴みにしている

不安が永遠に続くこともまたハッキリしていた。

墜落機の中にでもいるような激しい衝撃は収まったが、

高みに渡されたガラス板の上に立って下を見るような、

踏ん張りのきかない絶望感が彼の全身をしっかりと

捉えていた。

・まるで糸の切れた凧のように嬉々として、彼はたちまち

ラグビーに打ち込んだ。

・それは目まいに似た暗闇を頭の中に喚起して彼をたちまち

恐怖の底に突き落とした。

・たちまち彼の気分とは噛み合わない交換手の呑気な声が

返ってくる。


出張先の海外で 文学を志す友人から「習作だけど、読んで

感想を聞かせてくれないか」と言われて預かった小説のコピーが

手元にあります。

帰国の飛行機の中から読み始めました。15年も前のことです。

…結局、彼に“感想”を伝えることはありませんでした。


頻繁に登場する、純文学にはありがちな“修辞法”(同じことを

言い換えたり 単純な名詞や動詞に“持って回った”形容詞や

形容詞句を書き足したりするやりかた)にひどく違和感があり、

日本語的におかしい表現がたくさんあったからです。

それを伝えてこそ“友”なんでしょうが、最後の数行をのぞくと、

共感するところ、感心するところが少なくて、「これではなあ…」と

ためらってしまったのです。


広辞苑では“純文学”をこう説明しています。

大衆文学に対して、純粋な芸術を志向する

文芸作品、殊に小説


かつて、「岩佐徹的比較文化論」に書いたとおり、私は、

一貫して、芥川賞作品より直木賞作品のほうが好きでした。

物語としての面白さを追及して、比較的分かりやすい言葉で

簡潔に話を前に進めていく大衆文学に対して、作家が大事だと

考えるテーマを言い換えやたとえ話をちりばめて書くあまり、

ストーリーが停滞する純文学は、“生理的”に受けつけません。

ハハハ。


“帰省中”にフレデリック・フォーサイスの「アヴェンジャー」を

読み終えたあと、次は何を読もうかと本棚を探したのですが、

適当なものが見つかりませんでした。

うっかり、妻が読み終えてテーブルに積んであった“話題騒然”、

村上春樹の「1Q84」が目に入ってしまいました。

最近は 芥川賞作品を初め、たとえ話題になっていても、日本人

作家の作品はほとんど読んでいなかったのですが、すさまじい

人気のこの作品には関心がありました。

「そんなにすごいの?」「どこがそれほど面白いの?」…

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見た目はきりっとしたキャリア・ウーマン、実は…という女、

青豆(アオマメ)と作家志望の青年、天吾(てんご)が1章ずつ、

交互に登場して物語が進行していきます。


読み始めてはみたものの、たちまち、“15年前と同じ感覚を

味わうことになりました。もちろん、友人には悪いですが、

レベルは違います。しかし、「普通に書けばいいじゃない?」、

「どうして、そんなに得意げなの?」、「なぜ、まるで『どうだ、

うまいだろう。こういう言い換えは俺にしかできないのだ』と

言わんばかりに くどい形容詞や形容詞句を書き連ねなければ

いけないの?」と、へきえきした気分になるところは同じです。

ハハハ。


冒頭の3-5行目にかけて、こんな文章があります。


中年の運転手は、まるで舳先に立って不吉な潮目を読む

老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、

ただ口を閉ざして見つめていた。


“余計な”文節のおかげで、逆に運転手の表情が頭に浮かんで

きません。ハハハ。

“中年の運転手は、前方に途切れなく並んだ車の列を、

ただ口を閉ざして見つめていた”


では、どうしてもダメなのか?

それに、“途切れなく”という日本語、あるんですかね?

私の貧しいボキャブラリーには“途切れることなく”あるいは、

“切れ目なく”しかありませんので、この言葉に出会ったとき、

びっくりしました。

推敲に推敲を重ねたはずですから、“大作家”に間違いはなく、

私が知らなかっただけ…当ブログでは、とりあえず そういう

ことにしておきましょう。こう見えて謙虚なんです。ハハハ。


珍しい苗字を持つ主人公の一人が、行く先々の町で電話帳を

開いてみるが、同じ名前を持つ人物は見当たらなかった…という

記述のあとに“そのたびに彼女は、大海原に投げ出された孤独な

漂流者のような気持ちになった。”と書かれています。

数行後には“名刺を渡すと相手はしばしそれを凝視した。まるで

出し抜けに不幸の手紙でも渡されたみたいに。”とあります。


ほかにも・・・。


なのに、その音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭に

いろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の

鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。


録音された拍手を長く聞いていると、そのうちに拍手に聞こえ

なくなる。終わりのない火星の砂嵐に耳を澄ませているみたいな

気持ちになる。


「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な

一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと

繰り返した。


それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ

航空母艦の甲板を歩いているようだ。


堅く閉じられた唇は、よほどの必要がなければ微笑ひとつ

浮かべなかった。その両目は優秀な甲板監視員のように、

怠りなく冷ややかだった。


…傾向はお分かりでしょう。

省かれていることが多いですが、一つの文章を説明するときに、

“まるで(たとえば)、…のように(みたいに)”という形の文章が

続くのです。第1章、19ページ分の文章の中だけで“おかしな

”ところがこんなにあります。てんこ盛り。ハハハ。


ファンの多い、世界的に有名な作家ですから、当然、「それが

村上文学さ」とおっしゃる読者がたくさんいるのでしょう。

だからこそ、意図的に宣伝しなかったのに初日だけで数十万部を

売り上げたのでかもしれません。


しかし、天邪鬼の私はそれほど、感心したり、「参った」と

言ったりしません。ハハハ。

これは、作家の“言葉遊び”じゃないかと思うのです。

それが好きだと言う人もいるでしょう。しかし“いちいち”

感心したりしない私のような読者には余分なものでしか

ありません。どんなに高邁なテーマで小説を書いたって

読者に伝わらなければ意味がないじゃん。

分類上、純文学だろうが、大衆文学だろうが、分かりやすい

ことが肝心じゃないのかなあ。


考えすぎでしょうが、なによりも、読者に「うまいなあ」と

言わせたがっているように思えてなりません。“大向こう”に

受けることを狙っているようで、好きにはなれません。

もともと、世間が“絶対視”する事物には、“眉に唾する”ことに

している私ですから、大作家がこういう“自己満足”的なことを

やっているのが我慢できないのです。ハハハ。

ウエアや音楽をはじめ、やたらにブランド名や“うんちく”が

出てくるのも、かえって、作品全体の質を落としているように

感じます。“やすおチャン”に任せておけばいいのに…。


純文学とは“対極”に位置する分野(推理・探偵小説)になりますが、

私の大好きな作家に“ハリー・ボッシュ・シリーズ”で知られる、

マイケル・コネリーがいます。

探偵小説を馬鹿にしてはいけません。彼は、新聞記者として

“ピューリッツァー賞”の候補になったほどの実績を残していて、

今では、日本でもファンが増えています。

ときどき“うんちく”は出てきますが、英語で読んでも、彼の

書き方のほうが“無駄”が少なく、はるかにスマートです。

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…そんなことを言いつつ、BOOK1を読み終えてしまいました。

ハハハ。

こうなった以上 最後まで読むつもりですが、いまのところ、

高く評価できる小説だとは思わないし、“面白い”とも思いません。

“行きがかり上”、読み続けているだけです。


BOOK1の終り近くにこんな箇所があります。


「世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の

記憶との果てしない戦いなんだよ」

「たしかに」と青豆は言った。


…文化人類学者や哲学者ではなく、“普通の”20歳代半ばの女性

二人の会話です。すっげー!

小説だから、と言ってしまえばそれまでだし、こういう深ーい

会話ができる若い女性がいたっておかしくはないのですが、

ひたすら尊敬しちゃいますねえ。ハハハ。


編集者が天吾に向かって電話で 「ホットケーキみたいに

作るそばからどんどん売れている」と話す場面があります。

哀れな私の頭は“混乱”しました。

“花畑牧場の生キャラメルみたいに、作るそばから…”なら、

私の頭でも分かります。

しかし、この作家の書き方だと、“ホットケーキ”とは、“作る

そばから売れる”もの、ということになり、それはとてもおかしな

“決め付け”です。それとも、1984年当時はホットケーキが

“爆発的に”売れていたんでしょうか。まさかね。ハハハ。 


読みはじめたばかりのBOOK2にも、いきなりこんな記述が

あります。


百合は大きく、瞑想にふける異国の小さな動物のように

もったりしていた。

唇には色がなく、長い眉の外端は、まるで万有引力に抗する

ことをあきらめたかのように、わずかに下に降りていた。



相変わらず…。ハハハ。

こういう描写が、ものすごく気になるのです。


ただし、初めは、まったく接点がなさそうに見えていた2人の

主要な登場人物の間に、少しずつ、“絆”があることが明らかに

なってきています。これから面白くなるのか?!

仮に、読み終えたときの感想が大きく変わっていてもどうか

私を責めないでください。ハハハ。


このエントリーを書くのに、少し“ためらい”がありました。

ささやかではあっても、不特定多数の人の目に留まるブログで、

ノーベル賞を獲ろうかという世界レベルの大作家の作品に

“いちゃもん”をつけ、文章についてまでごちゃごちゃ言うのは

それなりの“勇気”が要ることなのです。ハハハ。


これを何と言えばいいのでしょうか?

“飛んで火に入る夏の虫”?…じゃあないでしょう。

“風車に挑んだドン・キホーテ”?…違いますねえ。

“蟷螂の斧”?…これも違うなあ。

“「私を総裁候補に」の東国原知事”?…。ハハハ。


ピッタリの言葉は見つかりませんが、周囲からの“冷ややかな”

目を意識しながら、勝てる見込みのない相手に挑んでいる

自分が見えます。それぐらいの自覚はあります。ハハハ。


参考のために、この記事に対するコメントを先に()

更新してあります。興味があったらどうぞ。


by toruiwa2010 | 2017-10-07 07:30 | アーカイブから | Comments(0)
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