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岩佐徹のOFF-MIKE

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翻訳された文学とは何か? 1~アーカイブから~17/10/14

先週に続いて村上春樹ネタ2連発です。

ファンの方、すみませんね。

今日と明日で終わりです。我慢してください。

もっとも、この2本は村上文学を批判する

ものではないけれど。


村上春樹 受賞を逃がす

~思い出すぜ「1Q84」騒動~( 2012.10.12 初出 )

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2012/10/12のツイート


今夜 ノーベル文学賞の発表らしい。

前もって書いておく。村上春樹が受賞したら、

めでたいことだとは思うが、認めない。

1Q84」・・・どこが良かったのか?

突っ込みどころ満載で、ブログでもずいぶん

書かせてもらった。

そもそも、翻訳された文学ってなに?


文字数の関係で言葉足らずになったが、この賞は1作に対して

与えられるのではなく、業績全体が対象であることはちゃんと

承知している。めでたいけど認める気にならないそもそもの

理由が「1Q84」だと言いたかったのだ。

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3年前に出版された当時、村上春樹の「1Q84」を読んだ。

最後まで読みとおしたとき、自分をほめたいと思った。ハハハ。

たしか、それまで彼の著作は1冊も読んでいないと思う。

読んでいれば記憶があるはずだから、“…と思う”は言い方が

変だと突っ込まれそうだが、あいまいなのだ。

きっと、読みかけてやめたのが1冊ぐらいあるのだろうと思う。


1Q84」も、読みとおしたには、若干のがある。

BOOK 3までは読んだのだが、BOOK4は読んでいない。

だって、当初 聞いていたのは3部までという話だったもの。

それに どう頑張っても、妻が買って読み終えたBOOK 4には

手が伸びなかったのさ。満腹感。ハハハ。

1Q84」については、読みながら、そして、読み終えたあと、

数回にわたって書いた。

去年10月に骨折したとき、せっかく訪問した読者を手ぶら

返すのは申し訳ないと、Archiveとして更新した。


中略(注:先週末 更新しているのでカット)

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ノーベル文学賞でいつも疑問に思っているのは“翻訳文学”の

意義・存在だ。

村上作品は世界40数カ国の言葉で発刊されていると聞く。

それは素晴らしいことだ。

論文や記事なら事実関係が大事な要素だから、違う国の言語に

訳されても大きな問題はないかもしれない。

しかし、登場人物の心の中、感情のひだが重要になる文学の場合、

どうなんだろう、と思う。


極論に聞こえるだろうが、日本語で書かれた「ノルウェイの森」と

英語に訳されたそれは“別物”だと思うわけだ。だって、言語には

その国の文化や歴史が深くしみ込んでいるからね。

「分かっとらん。完璧に、忠実に村上の世界を映している」と言う

輩がきっといるだろうね。じゃあ聞くが、そう言い切る根拠は

あるのかね? ないよね。ないと思うよ。

私に言わせれば、翻訳で選ばれた言葉は訳者のものだもの。


山中教授のiPSや物理学賞、化学賞のように言語に関係なく

世界に通用するものはいいとして、文学の優劣を世界規模で

語ることは難しいと思う。

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3年前にも、病状に差はあっても当ブログの読者の中に

ハルキストがいたと記憶する。残っていればさぞ不愉快だろう。

最近 立て続けに、北野武やらイチローやらに噛みついている。

いやな爺さんだね。

スーパースター、頂点に立つ男(女も)、絶対視される者たちを

常に懐疑の目で見るのが岩佐流だから、今更呆れても遅い。

読み始めた以上、我慢してもらわなければ。ハハハ。


英語版「1Q84」を読む

~面白いけど別物だよね~( 2012.11.30 初出 )

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朝日新聞の文化面に「英語で読む村上春樹」というコラムが

載っていた。見出しを見た瞬間にビビビっと来た。

記者は語学力向上のために英語で読み始めたらしい。以前は

村上の“いい読者”ではなかったと前置きし、こう書いていた。


「海辺のカフカ」で15歳の少年が筋トレをして

コルトレーンを聴く描写に鼻白み、追うのを

パタリとやめた。村上特有のしゃれた比喩や

ジョークさえ、「なんだかなあ」と鼻につく。

ところが英語だと、ずっと肺腑にしみる・・・


そのあと、なぜかについて考察している。


記事を読み始める前から「その手があったか」と思っていた。

目からウロコ…だった。

早速、本屋に行き英語版「1Q84」を買った。

BOOK1-31冊に収めているので1300ページ(!)を超える

大作になっていた。一緒に購入したグリシャムの本と比べると

その厚みが分かる。

ほかの作品でもよかったが、妻が日本語版を持っているので

“読み比べ”ができると思ったのだ。

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実際に読んでみると、スーッと頭に入っていく。

一度、日本語で読んでいるせいもあるが、多分、こうだ。


日本で生まれ育った者が 書かれている日本語の文字を目に

したとき、その単語の“辞書的”な意味だけでなく、付随する

さまざまなニュアンスを無意識のうちに加えて理解していく。

その“周辺部分”に含まれる情報量は読み手が育った環境によって

大きく変わる。


情報量が少ない人たちには村上春樹の“持って回った”比喩も

気にならないだろう。

しかし、74年も生きてきた老人はうざいと感じてしまうんだ。

英語で読むと、単語ごとに辞書に出ている意味のうち、文脈に

なじむもの一つをあてはめて読み進むから、“余計な情報”が

邪魔する余地が少ないのだと思う。


たとえば、作家志望の天吾に雑誌の編集者・小松がこう言う

場面がある。「俺が望んでいるのは、文壇をコケにすることだよ」


“文壇”には周辺情報がたくさんついて来る。

文学の世界では一定のグループを指す言葉だし、“ムラ”的な

ニュアンスも感じる。

ステータスやテリトリーといった意味合いも含んでいる。

英訳だとこうなる。


I’d be doing it to screw the literaryworld.


うーん、どうなんだろうね。literary worldで、日本社会の中で

文壇が占めているポジションが伝わるとは思えない。

じゃあ、どう訳せばいいの?と聞かれても困るが。ハハハ。

村上自身も十分に納得したわけではないだろう。

その証拠のように、数行後には同じ言葉を“でくくっている。

日本語版では文壇のままだ。英語版で“literary world”としたのは、

この言葉が日本では独特のニュアンスを持っていることを

伝えたいからに他ならない。

このように、作家が母国語で書いたものと、他人が自分の国の

言葉に置き換えたものでは大きな違いが生まれる。

両者が生まれ育った環境や個人のキャリアが違うから当然だ。

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村上春樹は毎年ノーベル賞の季節になると、「今年こそは…」と

期待が高まるほど、候補の常連だが、そのたびに当ブログは

疑問を呈してきた。

“翻訳文学”というものの意義・存在だ。彼の作品は40数カ国語に

翻訳されているらしいが、ノーベル賞の候補に挙げられるのは

何語かに訳されたものを読んだ結果であって、万が一にも、

“日本語版”ではあるまい。普通に考えれば、“英語版”だろう。


そして、どう考えても、原語と ほかの国の言葉に翻訳された

ものとは別物だ。音楽や絵画は翻訳を必要としない芸術だ。

医学や、化学・科学、物理学、生理学…すべて、絶対の真実が

ものをいう分野もそれだけで世界に通じる。

しかし、文学はそうはいかない。限界がある。

「いや、文学で大事なのは物語だし、全体を支える哲学だから、

こまかい言葉のニュアンスなんて関係ない という外野の声が

聞こえる気がするが、登場人物の思い、感情のひだ、物語の

舞台が持つ歴史や文化を理解できないまま、その文学を完全に

理解することなど不可能ではないか。


極論するなら、日本語で書かれた「1Q84」と英語に訳された

それは別物だ。“文壇”と“literary world”が別物であるように。


まだ、30ページほどしか読んでいないが、困ったことにこれなら

面白いのだ。ハハハ。

もっとも、途中から苦手なカルトっぽい話になっていくことを

知っているから、その部分の手前で読むのをやめる予定だ。


朝日の記事は“ノーベル賞は、むろん遠くないのでしょう”と

結ばれている。くどいようだが、私は正反対の結論だ。

ここは、ハハハでなく、Hahaha


ほら、まったく雰囲気が変わるよね。ハハハ。


by toruiwa2010 | 2017-10-14 06:58 | アーカイブから | Comments(0)
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