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岩佐徹のOFF-MIKE

toruiwa.exblog.jp

実況、ドラマなど放送全般、映画、スポーツ全般、 旅、食、友 etc

カテゴリ:その他( 7 )

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by toruiwa2010 | 2014-12-08 06:32 | その他 | Comments(0)
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炎上騒動のとき、wikipediaの私の項目に“あんなことやこんなこと”が書かれていると
ネットで知ってしまい、のぞきに行きました。初めのころはかなりひどいことが書かれて
うんざりしていました。その後、いろいろ“うるさく”なったせいか、相当に整理された
ものになっていたので見ることもなくなっていましたから、読んだのは数年ぶりでした。

たいした実績もありませんから、今度のことを含めても簡単なものです。
その中に、マグマ大使 第35話「危うしマグマ基地」・第36話「地球を救え」(1967年)に
アナウンサー役で出演していたと書かれていて懐かしくなりました。
「マグマ大使」は特撮ヒーローものとして人気があるフジテレビの番組でした。
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当時、新人アナウンサーはこういう番組によく駆り出されました。演技はできませんから、
大体アナウンサーとしての出演です。私の2度の出演もそうでした。わずかな出番なのに
むちゃくちゃ緊張した撮影のあとのアフレコで主演クラスの應蘭芳さんと“接近遭遇”し、
どぎまぎしたことを思い出します。おう・らんふぁん…むんむんするお色気をまき散らす
女優さんでした。今なら壇蜜?いや、壇蜜ならどぎまぎなんかしません。ハハハ。

話は変わりますが、水島新司の漫画「あぶさん」が終了していたことに気づきました。
終わるという話は聞いていました。まさか、2月はじめという中途半端な時期に終わるとは
予想していなかったのです。

私たちの年代の者にとってのマンガは「のらくろ」(田河水泡)、「冒険ダン吉」(島田啓三)、
「フクちゃん」(横山隆一)あたりまで…、つまり、戦争中から終戦後間もないころまでで
終わっています。
やがて、爆発的なブームになった劇画やギャグ漫画などには一切興味がわきませんでした。
いま振りかえると、それでよかったと思います。とにかく“のめりこむ”タイプですから。
ハハハ。

ただし、手塚治虫やそのあとに続いた“巨匠”たちの作品にまったく触れなかったことで
若いころ、周囲との会話がとぎれとぎれになったことがしばしばです。“少しは”読んで
おけばよかったかなあという反省はあります。
そんなわけですから、「あぶさん」も「ドカベン」も1ページも読んだことがありません。
ただし、ひょんなことから、“片鱗”に触れたことはあります。

長くテレビ業界にいましたが、顔を出すことが少ないスポーツ・アナウンサーだったし、
イケメンでもなかった私のアナウンサー生活はかなり地味なものでした。そんな中でも、
名前や顔が少しは世間に知られた時期もありました。
たまに街で声をかけられたり、指をさされたりすることを経験したのは、芳村真理さんや
寺島純子さんと組んで司会をした主婦向けの午後のワイド・ショー、「3時のあなた」から
メジャー・リーグの中継に至る、73年から82年初めまでのことです。

中でも、1年目の長嶋・巨人が惨敗した翌年、76年に始まった「プロ野球ニュース」を
見ていただいた方はかなりおいでのようです。
いまでこそ、夜遅い時間のスポーツニュースはどこの局でもやっていますが、そのころは
フジテレビの“独占”状態でしたから、注目度も高かったのです。
私は、番組開始から、1978年に始まったメジャー中継が忙しくなるまでは毎日のように
出演していたことで野球ファンの間で、多少知られる存在になっていました。
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当時、視聴者の方から送られて来たのがこれです。
自宅でスキャンしたので見づらいでしょうが、「ドカベン」か「あぶさん」の一場面では
ないかと思います。
私の前には“岩佐徹”のネームカードが置かれていますし、向かって右にバットを手に
座っているのは岡本伊三美さんです。

南海ホークスの名セカンドとして鳴らしたあと、近鉄バッファローズの監督もつとめた
岡本さんは、関西テレビの解説者だった時期がありますから、当然よく知っています。
しかし、残念ながら、実際に「プロ野球ニュース」で組んだことは一度もなかったのです。
きっと水島さんの頭の中では元南海の岡本さんだけが大事で、相手のナウンサーは
誰でもよかったのでしょう。ハハハ。

先だっての“騒ぎ”の最中に同じ画像が貼られていました。
どんな意図での行動かは分かりませんが、大切に保存しておいてくれたことに感動です。
ハハハ。
by toruiwa2010 | 2014-09-02 09:45 | その他 | Comments(4)
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杉並区三谷町

物心がついたころ暮らしていたのは東京都杉並区三谷(さんや)町でした。
今は“桃井”と町名が変わっています。小さな一軒家に庭がついていました。
玄関を開けると門までの数メートルの間にツツジと金木犀の木が植えられていて、
門の手前、長兄の部屋だった洋間の前には防空壕がありました。戦争中、何度か
中に入りましたが、狭いなりに居住性はそんなに悪くありませんでした。
当時は、庭でトマト、キュウリ、ナスなどを栽培していました。
小学生だった私の“親友”はネコのチャメでした。
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お隣りの田中さんは散髪屋で、子供のころはここで髪を刈ってもらっていました。
ななめ後ろに家族ぐるみで仲が良かった押本君の家があり、よく食事をごちそうに
なったものです。通りを挟んだ向かいには豆腐屋さんがあって、遠足の前日は必ず
そこに“お使い”に行きました。母が得意だったいなりずしを作ってもらうために
油揚げと経木(きょうぎ)を買うのです。

吹田市千里山

中学3年から5年間(1953~58年)は父の仕事の関係で大阪に住んでいました。
吹田市千里山です。阪急千里山線の終点で梅田から20分ぐらいのところでした。
上には水道用の貯水池のようなものがあるだけの、町では一番高い位置だったと
記憶しています。積みあげた石で囲った造成地に平屋の住宅が6棟あって大阪で
印刷・販売を始めたばかりの読売新聞社の幹部が住んでいたのです。

生駒山が見える南側の庭にはアカシヤとハナミズキが植えられていました。
結構、見晴らしがよくて天気のいい日に縁側から生駒山を眺めるのは最高でした。
ある日、とんでもない“事件”が起きました。

土砂降りの雨でした。雨音をついて“ドーン”という大きな音が聞こえました。
はじめは何の音か解りませんでした。家の周囲を見まわると南側の庭が…
“石垣”が崩れ、土がえぐれています。しかも、現在進行形、つまり、目の前で
どんどん、えぐれて行きます! やわらかい土なので他愛もなく雨に流されます。
気が付けば、家を支える土台の一つに50cmほどのところまで迫っていました。
あと10分も降り続いていたら我が家は倒壊していたはずです。

奇跡的に雨が止み、危ういところで、“集中豪雨によるがけ崩れ”を免れました。
詳しく調べるまでもなく、石垣が崩れた原因はあっさり判明しました。
積みあげた石垣に水抜きの孔が一つもなかったのです!
短時間に猛烈な勢いで降った雨は土に吸い込まれたあと行き場を失い、最後に、
石の壁を突き破ったわけです。ハハハ。

杉並区下高井戸

高校3年のとき東京に転校し、慶應に入学してからの半年ぐらいまで、吉祥寺、
中野、祐天寺などを転々としました。
父が産経新聞に招かれて上京し、ふたたび家族が一緒に生活するようになりました。
しばらく奥沢で間借り生活のあと、1961年、杉並区下高井戸の田圃を埋め立てた
住宅地に一戸建てを買いました。西永福駅に6~7分ほどのところです。

井の頭通りと甲州街道をつなぐ道が家の横を走っていましたが、交通量はそれほど
多くはなくて静かでした。周囲はまだ畑が多く、天気のいい日は私の部屋の窓から
遠くに富士山が見えたものです。

世田谷区上北沢

1963年に結婚し、上北沢の奥山荘という木造アパートに住みました。
6畳と4畳半に小さなキッチンがついた部屋で風呂はありませんでした。
京王線をはさんで反対側にあった銭湯に通いました。冬場、銭湯の前で妻を待って
いると体が冷えたことを思い出します。♪神田川の世界でした。ハハハ。

木造アパートですから、トイレの水を流すのに神経を使いました。
「プロ野球ニュース」で帰宅が深夜になることが多かったのですが、アパートまで
50メートルほどのところに教会があり、門の外に立っていた木に向かって立X便を
したことが何度かあったことを懺悔します。お許しください。ハハハ。

豊島区東池袋

何とか風呂付の広い部屋に越したいと思い、公団住宅には欠かさず応募しました。
ポストから新聞をとってきて当選番号を祈るような気持ちで探す日々でした。
3年目のある日、やっと、祈りが通じました。
当選したのは豊島区東池袋の住宅です。

部屋を決めるとき、907号室を選びました。エレベーターに近いことが理由の一つ、
もうひとつは、私のフジテレビの社員番号だったからです。ハハハ。
11階建ての建物は、都電が護国寺方面にカーブするところにあり、通りの向こうに
雑司ヶ谷の墓地が見えていました。
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都電で早稲田に出てバスで河田町まで30分ぐらいで行けるのが嬉しかったです。
遅れそうなときは、タクシーを飛ばせば10分足らずで会社まで行けました。
当時は、護国寺前を右折、講談社や音羽御殿の前を抜けて河田町まで100円玉が
二つあれば行けたものです。

間取りはいわゆる2DKでした。風呂がついているのは嬉しかったのですが、どこで
見つけたのかと感心するほど小さい風呂桶で、無駄に足が長い私は膝を抱えないと
肩までつかることができませんでした。ハハハ。
会社からの距離が近いことや、夫婦二人きりだったので、この家にはしょっちゅう
同僚アナウンサーが遊びに来ていました。来客が一番多かったのはこの家ですね。

この家の電話番号は今でも記憶しています。983-2093です。
好きな語呂合わせで、お“くやみに(9832)涙ぐみ(093)”と覚えたのです。ハハハ。
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再び、下高井戸

このアパートには5年住んだあと、1971年に下高井戸の実家に戻りました。
両親が年を取ったので、同居した方がいいだろうということになったのです。
実家に二階を建て増して住むことにしました。
妻の希望で板張りにしました。家の内側はすべてむき出しの木になりました。
引っ越しの業者に「これは…未完成なんですか?」と聞かれたときは爆笑しましたが。
ハハハ。

日当りのいい家でした。縁があって飼うことになった3匹の猫たちも窓を通して
入ってくる日差しを存分に楽しんでいました。
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諸事情があって、16年後、実家を出て再びマンション暮らしを始めました。
高井戸東に1年、浜田山駅近くのマンションに2年、光ヶ丘団地に4年住んだあと、
井の頭線・代田二丁目駅近くに移りました。
58歳にして、初めて買った家がこのマンションです。ずっと賃貸に住むよりは
その方がいいかもしれないと思いました。

世田谷区代田

売買契約がまとまったあと、不動産屋の社員が「実は、ここに住んでいたのは
〇〇サンなんですよ」と言いました。夕方のニュース番組でキャスターを務める
女性でした。「なぜ、今になって?」と尋ねると「いえ、嫌う方もいますから」と
遠慮がちに言いました。なるほど。でも、アイツやコイツやソイツでさえなければ
あとに住むことまで嫌だとは思わないけどなあ。ハハハ。

ここには7年住みました。居心地は悪くなかったのですが、部屋が2階だったため、
足腰を痛めたときに困ると思い、エレベーターのあるマンションに移る方がいいと
考えました。いつか自分は車いす生活になると勝手に決めていたのです。ハハハ。
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あまりいい値段では売れないと覚悟を決めていたのに、ほぼ言い値で売れました。
隣りのオタクとの境の塀によく猫がいて、我が家の猫が“仲良く”していました。
その縁で、そこの奥さんと妻が立ち話をするようになっていたのが幸いしたのです。
その奥さんが、彼女の知人に買わせるように話を進めてくれました。

買い手になった女性は一人暮らしのマッサージ師で数匹の猫を飼っていました。
理由はよく分かりませんが、隣の奥さんはマッサージ師を完全に“支配”していて、
あっという間に話をまとめてくれたのです。占い師と中島知子のような関係で、
契約書を交わすまで、マッサージの女性は我が家を見ていなかったと思います。
数千万円単位の買い物なのに。ハハハ。
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目黒区碑文谷

引っ越したのは碑文谷でした。
目黒通りまで100メートルほど、ダイエーの反対側です。目黒駅からタクシーで
帰るときは、ダイエーの手前でいったん左折し、二度 右折、目黒通りを横切って
直進するとマンションの裏側でした。
ここに住んでいるときのウォーキング・コースは自由が丘往復でした。おしゃれな
店が多く、坂道もあって楽しめる1時間でした。
もったいないことをしたと思うのは、現役バリバリで忙しかったせいもありますが、
話題の目黒川の桜を一度も見なかったことです。

キッチンにいると、遠くから東横線が走る音が聞こえてきたものです。
閉まっている窓に向かって座っているチャバはその音に耳を傾けているようでした。
彼は下高井戸時代からずっと私たちと行動を共にしてくれたのです。
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日差しがいっぱいに入るサンルームがあってそれなりに気に入っていたのですが、
そのマンションにはたった2年しか住みませんでした。窓からの景色が変わって、
コンクリートの建物ばかりになってしまったからです。

結婚後、引っ越しの回数が増えたのは、妻が苦にしないからです。準備はほとんど
すべてを妻がやってくれますから、私もいやではありませんでした。新しい環境に
住むのはわくわくすることだったし。

そのころ引越しが多かった我が家には独特のマニュアルがありました。
まず、前日までに新居にチャバの居場所をこしらえます。
当日は夫婦でチャバを段ボールに入れてタクシーで新居に行きます。ペット不可の
マンションが多く、近所にばれないようにと、4時半、5時という早朝を選びました。
私は戻って引っ越し業者を待つのです。

碑文谷から転居するときも当然この手順を踏むつもりでいました。
しかし、面倒なことをしなくてもいいようにと、“親孝行”のつもりだったのか、
引っ越しの3週間前にチャバが亡くなりました。
外に出たがるネコではなかったのですが、窓から外を眺めるのが好きでしたから、
新居からの風景を見せてやりたかったのに。
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杉並区XXX

結婚してから9軒目の今のマンションは南側に公園があって開放感があります。
つい先日まで満開の桜を楽しませてくれました。犬の散歩場所でもあり、近所の
保育園から先生に引率された園児たちもよく遊びに来ています。犬の鳴き声も、
子供たちの騒ぐ声も気になるほどうるさくはありません。

ここを見つけたのは妻でした。
妻が気に入ったところが一番だと思い、期限を決めずに「見て回ったら」と話して
いたのですが、ある日、出先からかなり興奮した声で電話がかかってきました。
「いいところがあるわよ」と。
急いで駆け付けて、その場で決めました。
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井の頭沿線は都内で最もなじみのある地域です。自分たちの“テリトリー”という
感じで、町を歩いても電車に乗っても気持ちが落ち着きます。
駅まで6分だし、静かだし、間取りもいい上に南が大きく開けています。
見つけた妻に感謝です。先月31日で引っ越してから満10年になりました。

よほどのことがない限り、ここが終の棲家になるでしょう。
by toruiwa2010 | 2013-04-05 06:06 | その他 | Comments(0)
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つい先日、アメリカ北東部を冬のストームが襲った。
英語ではmonster blizzard(モンスター・ブリザード)と書かれていたが、おそらく
日本で言う“爆弾低気圧”のようなものだったのだろう。国が大きい分、こういうものの
スケールも半端じゃない。ニューヨークなどは停電騒ぎもあったらしい。
大都市ほど雪への備えがおろそかだから、こういうときにいろいろと“不具合”が
起こるのは洋の東西を問わない。
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1973年から2005年までアメリカには何度も行ったが、冬場が少なかったせいか、
雪の印象が少ない。大リーグの取材で大陸を横断したが、ロッキー山脈の上空を
通過するときに雪が残っているのを見たような気がする。
1998年、全米オープン・テニスが終わって帰国する際に乗ったJALが電気系統の
不具合でアラスカに“緊急着陸”したときもマッキンレーには雪があったはずだが
定かな記憶がない。ハハハ。

はっきり覚えているのは1995年のクリスマスだ。
この年、WOWOWが中米・ジャマイカで行われたゴルフ大会を中継し、その帰り、
乗り継ぎのために立ち寄ったニューヨークで雪に出会った。
“ホワイト・クリスマス”だったわけだが、暑いジャマイカに合わせて、基本的に
“薄着”だった一行はそれどころではなかった。翌日、飛行機が飛んでくれること
だけを祈ったものだ。ハハハ。

ヨーロッパからの行き帰りには飛行機の上から雪山を何度も見ているが、わざわざ
近くまで眺めに行ったとはない。もったいないことをしたものだと思う。
いくらでもチャンスがあったのだからもっとじっくり見ておけばよかったのに、と
今になって思うが、当時は現役バリバリだったからそういう気にならなかったのだ。

ユベントスの試合を実況するためにイタリア北部の街、トリノを数回訪れている。
当時 本拠地だったスタジオ・デッレアルピはホームスタンドの最上段まで上がって
外を見ると、雪を戴いたアルプスが見えたものだ。たしか、車で1時間も走ると
スキー場があると言っていた。試合の数日前には到着していたのだから、その気が
あれば、近くまで行く機会はあったのに、当時は山の景色などに関心はなかった。
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もっともっと悔やまれるのは、1991年3月のオーストリアだ。
アメリカ・ラスベガスでタイソンのボクシングを実況したあとウイーンに飛んで
ホテル・ザッハに一泊した。ロビーの一角にあるカフェでザッハ・トルテを食べ、
さて、フィラッハにはどう行くのだろうかと、フロントで尋ねた。翌日、そこで
練習中のアイスホッケーの日本代表と合流することになっていたのだ。
フロントの「近くの駅から列車で4時間ぐらい」に仰天。ラスベガスにいる間に
東京から来た連絡では「車で少し行ったところ」にあるはずだったからだ。
近いなら明日の朝食後でもいいと思っていたが、通りがかったついでに念のために
聞いておこうかなと思いついてよかった。サッカー以外の種目には興味のない雑な
プロデューサーの“仕業”だった。ハハハ。

慌てて、駅に行き切符を買った。やはり4時間前後かかった記憶がある。
ラスベガスからオーストリアを経由してスロベニア、さらにフィンランドまで行く
56日間の旅だったから荷物も半端じゃなかった。重いスーツケースを引っ張っての
列車の移動は地獄だった。
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ただし、まだ雪深い山間を行く列車の車窓からの眺めは最高だった。
途中、日本でも知られている有名なスキー場の名前もいくつか聞いた気がするが、
もう思い出せない。
しかも、途中から寝込んでしまってせっかくの景色も“堪能した”とは言えない。
あれほどヨーロッパ・アルプスに接近したことはないのだから、悔しい。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2013-02-15 08:44 | その他 | Comments(2)
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「ロマンス」、「センチメンタル」、「聖母たちのララバイ」…
高音部の澄んだ声がどこまでもストレートに伸びていく岩崎宏美の唄が好きだ。
薄めのメーキャップ、モノトーンの衣装、シンプルなステージングが歌のうまさを
引き立てていた。当時、アイドルとされていた歌手の中でも歌唱力は抜群だった。

きのう、妻のお供で買い物に出たとき商店街のスピーカーから彼女のヒット曲、
「思秋期」が流れていた。

♪青春はこわれもの 愛しても傷つき
青春は忘れもの 過ぎてから気がつく


うまいよね。実にうまい。たとえ方に感心し、その“ココロ”に虚をつかれる。
こんな言葉を紡ぎ出すのはやはり天才だなあと思って帰宅してからググってみると、
作詞は阿久悠だった。やっぱりそうか。顔に似つかわしくない言葉を使うんだ。
あ、顔は関係ないけど。ハハハ。
ちなみにこの曲で一番好きなのは、最後に半音上げて(?)歌うサビのところだ。
音程が狂うことのない彼女の良さが出てるね。

なお、妻の買い物についていくのは優しさからじゃない。
優しいっちゃ優しいのだが、軽い散歩を兼ねているのさ。言われたことはないが、
商店街では、界隈で一番仲がいい夫婦で通っているはずだ。そのままにしておく。
ハハハ。 


商店街に向かう途中で“ご老体”のラブラドールに出会った。
飼い主が持つリードにひかれた彼は雪が残る歩道をゆっくりゆっくり歩いていた。
「肉球が冷たいでしょうね」と妻。
「それでも、外に出るのは嬉しいんじゃないの?」と私。

…この会話がチャメの記憶を呼び寄せた。
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ある日帰宅すると、アラジンのオイルヒーターの横に小さな猫が“鎮座”していた。
「誰かな?」と問う私を見上げた彼は「あなたこそどなたですか?」と言いたげに
首をかしげて見せた。
土砂降りだったこの日、玄関の前で必死に泣いていたのに気付いた妻がたまらず、
家の中に入れたのだった。42年前の1月だった。

結婚して8年目、我が家の一員になったチャメはすぐ環境に溶け込んだ。
居間の隅の小窓を開けてやると、そこからいそいそと出ていき、声をかけると
戻ってきた。数日後、雪が降った。まだ幼かった彼の人生ではおそらく初めての
雪だったのだろうが、嬉々として外に飛び出していった。

猫にはありがちだが、“ダルマさんが転んだ”が好きだった。
小窓から少しだけ顔を出して名前を呼び、目が合った瞬間に引っ込み、数秒後に
覗くと2,3歩近づいている。繰り返すうちに窓の下にたどり着き、しげしげと顔を
見つめたあと、「なんだ」という顔になるのだ。第三者にはどうということのない
そんな表情、しぐさはいつまでも記憶にとどまって消えない。
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こちらをうかがって雪にもぐり込むと、全体が白っぽい彼の姿は周囲に溶け込んで
しまうのだが、耳のあたりの茶色と薄いグリーンの目だけが残った。
今でも、チャメを思い出すときまず目に浮かぶのは雪に身をひそめる姿だ。

一度、“失踪”し、このときはお隣りのアパートの一室に入り込んでいたのだが、
二度目は…“還らぬ人”になった。家族でいてくれたのはわずか37日間だった。

チャメ、忘れてないからね。
by toruiwa2010 | 2013-01-18 09:05 | その他 | Comments(2)
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昨日に続いて、心温まる話です。
一読、「人はここまで優しくなれるのか」と思わされました。
とくに、この2週間ほど“嫌味”なコメントを山のように
読まされてきた身には、胸に、形のない“ほっこり”した
ものが生まれた気分です。ハハハ。

「heart warming・・・」08/03/14


このブログでは、“森羅万象”が対象です。テニス・ねたを減らしてからは特に。ハハハ。
毎日、新聞やテレビでひそかに“ねた”を探しますが、世の中の出来事に適当なテーマが
見つからないときにはネットをサーフします。ただし、私の経歴を考えると、スポーツや
放送に関する話題が多くなるのは当然でしょう。
ネットをうろつくときもその方面の記事が目標になりますが、同時に私の“アンテナ”は
“ちょっといい話”にも向けられています。
今日のエントリーはそんな私のアンテナに引っかかった話です。

アメリカのあるラジオのDJがこんな話をしたそうです。
彼が妹から聞いた話として紹介していました。

<<<これは今までに読んだこともないような優しい気持ちにあふれた手紙です。
誰が送ってきたのかまったくわかりません。しかし、郵便局で配達不能郵便物を扱う人の
すばらしい思いやりの心があったに違いないと思います。

「 私たちが飼っていた犬、アビーが先月14歳で亡くなりました。
彼女が死んだ翌日4歳になる娘のメレディスは泣きながらアビーがいなくなってどんなに
さびしいかを話していました。彼女は私に、神様に手紙を書けるかしらと聞きました。
そうすれば、アビーが天国に着いたとき 神様にも気づいてもらえるからというのです。
私は、大丈夫だと思うわよと言いました。彼女は私にこんなことを書かせました。
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“神様、私の犬の面倒を見てくださいますか?
彼女は昨日死んで今はあなたと一緒に天国にいます。いなくなってとてもさびしいです。
あなたが、病気にはなりましたが、アビーを私に彼女を飼わせてくださって嬉しいです。
あなたが彼女と遊んでくださればと思います。彼女の写真を送ります。
彼女が私の犬だと分かっていただくために。本当にさびしいです。Love, メレディス ”

私たちは、手紙をアビーとメレディスの写真と一緒に封筒に入れ宛先を“天国の神様”と
しました。私たちの住所を書き、メレディスが何枚かの切手を貼りました。手紙が天国に
届くためにはたくさんの切手が必要だと言いながら。

その日の午後、メレディスは郵便局のポストに投函しました。
数日後、彼女は私に神様はあの手紙を受け取ったかしらと聞きました。
着いていると思うわよ、と答えました。
…昨日のことです。金色の紙に包まれた荷物が我が家のポーチに置かれていました。
見慣れない文字で“メレディスへ”と宛名が書かれていました。
メレディスが包みを開けてみると 中にはMrロジャースが書いた「ペットが死んだとき」
という本が入っていたのです。そして、本の表紙の裏に私たちが神様に書き送った手紙が
開封された封筒に入って、その反対側にはアビーとメレディスの写真がノートと一緒に
テープで止めてありました。

“メレディスちゃん、アビーは無事に天国に着きましたよ。
写真があったのでとても助かりました。おかげですぐにアビーが分かりましたよ。
アビーはもう病気ではありません。魂は私と一緒に天国にあります。
彼女はあなたの犬であることを愛していました。
天国にいる私たちは体が必要じゃありません。だから、写真をしまっておくポケットが
ないんです。そこで、写真はこの本と一緒にあなたに送り返すことにしました。
あなたが持っていれば、アビーを思い出すことができるでしょうからね。
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素晴らしい手紙をありがとう。
書いて私宛に送るお手伝いをしてくれたお母さんにも感謝します。
なんて素晴らしいお母さんなんでしょう。
毎日 祝福を送ります。そして、あなたをとても愛していることを忘れません。
ところで、私を見つけるのはとても簡単なことだよ。私は 愛があるところならどこにでも
いるのだからね。Love, God”」

一度、見事にだまされたことがあるサイトで見つけました。
ですから、怪しいといえば怪しいのですが、創作にしても、いい話だと思いましたので
紹介しておきます。

WOWOWのテニス中継の中で「a la carte」というコーナーを
やっていた時期があります。
テニスにまつわるささやかなエピソードを集めて紹介しました。
原点は、今日の記事のような“ちょっといい話”です。
→ http://bit.ly/oNwAus


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by toruiwa2010 | 2011-08-28 08:14 | その他 | Comments(11)
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元旦からこちらで“営業”しています。
新参者ですが、よろしくお願いします。


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東京・吉祥寺の明星学園で同じクラスにいた三橋俊夫君…どうしているだろうか?
めったに登校することはなく、たまに顔を出すときはステージ衣装だった。
彼をとり囲んで「なんだよ、このズボンは。脚より細いじゃねえか」とからかったものだ。
彼はアルバイトでバンドに入り、当時おおはやりだったロカビリー喫茶などでステージに
上がっていたのだ。着替える時間がなかったのか、見せびらかすためだったのか、彼は
そのままの格好で学校に来ていた。

通学路に井の頭公園があって、しょっちゅう不良学生がたむろしていた。
そんな所を派手な衣装の少年が通りかかるのだから、絶好のカツ上げの対象になった。
極端なときには行き帰りに二度も餌食になったというから少しは考えればよかったのに。
ハハハ。
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ラジオで山下敬二郎が死んだことを知った。
40歳代以下で彼が何者かを知る人は数少ないことだろう。
平尾昌晃、ミッキー・カーチスと並ぶロカビリー3人男の一人だ。
山下は落語家・柳家金語楼の息子だったことは当時こそ有名だったが、今どき金語楼の
名前を知っている人はもっと少ないだろう。

高校生のころ、ロカビリーが全盛だった。
教室で「ダイアナ」の歌詞カードが回され、授業そっちのけで写したものだ。
ロックンロールのプレスリーや爆発的人気のビートルズの少しあと、ロック、ヘビメタが
登場する少し前だったと思う。
数寄屋橋の一角に日本劇場、通称“日劇”と呼ばれた日本を代表する大劇場があって、
年に数回「ウエスタン・カーニバル」が開かれ多くのロカビリーバンドが出演して派手な
演奏を見せていた。

投げ込まれるテープの山に埋もれた彼らに若い女性が殺到して、ステージから引きずり
下ろすような騒ぎが毎回起きていた。
大阪から東京に戻ったばかりの私も友達を誘って一度だけ出かけたことがある。
同じ年代の女性たちの“狂気じみた”行動にあぜんとしたことを思い出す。ハハハ。


山下、平尾、ミッキー…3人とも同世代だ。そういう年齢になったということか。
首筋が寒くなってきた。風邪のせいでなく。ハハハ。

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by toruiwa2010 | 2011-01-07 08:02 | その他 | Comments(0)