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岩佐徹のOFF-MIKE

toruiwa.exblog.jp

実況、ドラマなど放送全般、映画、スポーツ全般、 旅、食、友 etc

カテゴリ:岩佐徹的アナウンス論( 124 )

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2005年に起きた尼崎の列車脱線事故は時間の経過とともに犠牲者がどんどん増えていく
いたましいものでした。テレビは、各局とも通常の編成をさしかえて伝えました。
こういう大きなニュースのとき皆さんは、どの局でご覧になるのでしょうか。
私の家の居間には、入社7,8年目ぐらいからは、常に2台のテレビがあります。
仕事の関係もありますが、「テレビが好き」だからでもあります。ハハハ。

事件・事故が発生すると、私は基本的に1台は音をしぼってNHKに、もう一台で民放を
ザッピングすることが多いです。民放はどこでもいいのですが、やはりなじみのある、
古巣のフジテレビが多くなります。この事故のときもそうでした。

昔に比べたらだいぶ症状が改善され、いつもはガマンして見るのですが、こういうときの
安藤優子はかなりつらいものがありますね。大きなニュースが飛び込むと気持が高揚して
興奮するのでしょう。声を張り上げる、早口になる、現場からのリポートの途中で自分の
判断・意見を差し挟む…性格からくるものもあるのか、完治は難しいようです。

フジテレビの“看板”を背負ってから長い年月 彼女を見てきましたが、この点で大きな
改善は見えません。リポーターが話している途中でさえぎるのは、頭のいい人ですから、
画面を見て話の先が読めてしまうからでしょう。困るのは、彼女の声がかぶると記者や
アナウンサーの話している事が視聴者にも彼女にも聞こえないことにです。
「相槌だけでいいから、まず聞けよ!」と、何度、突っ込んだか分かりません。ハハハ。
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彼女の場合、大きなニュースを伝えるときにはあわただしくすること、騒ぎ立てることが
大事だと考えているように見えて仕方がありません。テレビ朝日「報道ステーション」の
古舘キャスターにもこの傾向が見られます。局の方針、プロデューサーの指示もあるかも
しれませんが、こういう人たちを見ていると、いつも思い出すことがあります。

1993年4月、私はサッカー中継のためにイタリア・ミラノに滞在していました。
イタリア語は単語…それも主に日常の挨拶のフレーズとカルチョ関連の単語をいくつか
知っているだけですから、ホテルにいて暇な時間はCNNを見ていました。
ちょうどそのとき、アメリカ・テキサス州のウエイコという町で起きている事件が連日
報じられていました。細かなことは覚えていませんが、ブランチ・ダビディアンという
カルト教団が大量の武器を持って教団に立てこもり、FBIが投降を呼びかけていたのです。
それが数日続いたあと、とうとうFBIは戦車まで投入して建物への突入を図りました。
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その一部始終が生中継されたでのすが、スタジオの女性キャスターの落ち着きたるや!
死を覚悟した教団側が建物に火を放ち、あちこちから白煙が立ちのぼったときも少しも
騒ぎ立てることなく、冷静に現場の記者の話をリードしていました。
「これなんだよなあ」と思いました。

多分、彼らは“どんなときにもあわてず騒がず”を徹底して教え込まれているのでしょう。
いくつかの事件・事故の報道ぶりを見ましたが、どのキャスターも見事なほど冷静です。
印象として、高い声質の女性キャスターはいなかったように記憶しています。そのことも
放送が騒がしくならない理由の一つだと思います。

日本でテレビの放映が始まってから半世紀以上が経過しました。ほとんどすべての分野で
先輩・アメリカを見習ってきました。ニュース報道もそうです。
画期的と言われたニュースステーションのセットもアメリカでははるかに前から使われて
いたものの模倣にすぎません。
残念なのは、いつまでたっても“真似”の域を抜けられないことです。
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この分野で一番好きだったのはNHK「ニュースセンター9時」のキャスターでした。
海外勤務が長く英語とフランス語を話し、ジョークもおしゃれでした。
NHKの“枠”の中ではあっても、視聴者を引き付ける魅力は十分、わたしにとっては、
あとにも先にも 彼を超えるキャスターはいません。

現役キャスター諸君、まず、事件・事故のときに“けたたましく”するのは慎もう!
by toruiwa2010 | 2012-10-14 09:07 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(6)
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2004年3月末、「ニュースステーション」が終了し、表舞台からしばらく遠ざかっていた
久米宏がテレビ画面に戻ったのは1年後、2005年4月でした。
日曜夜8時、日本テレビの「A」という番組です。
日テレのこの枠では、「天才」横山やすしと共演した80年代前半の「TVスクランブル」が
懐かしく思い出されます。久米がTBSをやめたあと、「ニュースステーション」開始の
半年前まで放送されたもので、その後も付き合いの長いオフィス・トゥー・ワンが制作する
人気番組でした。

そのときの話題がいくつかカセット・テープにまとめられていて、その中から適当に選んだ
(少なくとも見た目は…)ものを見せたあと、やすしが好き勝手なことをしゃべる、その、
どこに向かうか分からない(ハハハ)やすしを、久米が鮮やかな“手綱裁き”で導いていく
という趣向でした。
生放送で過激な発言も多いやすしが出ているわけですから、スリルを感じながら見た人も
きっと多かったと思います。そして、久米のよさ、才能が十分に生かされて番組でした。
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新番組の興味は20年近く大変なストレスがたまる番組を担当したあと、しっかり充電した
久米宏がどんな切れ味を見せてくれるかという点でした。
結論から言うと、「肩すかし」・・・。ハハハ。
1回目がひどすぎました。いかにも間が悪すぎました。
後日の新聞で1回目をかなり前に収録したと知りましたが、収録した時点では、まさか、
アジアの情勢が“そんなこと”になるとは思いもしなかったでしょう。
その点は同情の余地が多少あるかもしれません。

それにしても、番組の冒頭、まず、北京のある家庭と映像つきのインターネットを結んで
出てきた話題が「肥満に悩む少女」!!
二つ目が、ソウルと結んで、「学歴重視」を反映して、妻と子どもが海外留学したために
「逆・単身赴任」になったサラリーマンの話!!

知っているようで知らないアジアをもっと知ってもらおうというコンセプトでしょうが、
この番組をはさんで、いやというほど見せられる中国や韓国の反日行動とのギャップが
激しすぎて見ているのが痛々しい感じでした。
スタッフや、久米の気持は手に取るように分かりました。
「しまった。やっぱり撮り直すべきだった」…でしょう。

収録した内容を考え、日本とアジアを取り巻く状況を見れば、そのまま放映したときの
“落差”は明らかでしたからスタッフの対応のまずさは最悪です。
こんなに“ゆるい”感覚で番組を作っていくのだとすれば、この先もあまり明るくないと
思いました。「撮り直したほうがいいのではないか」の声はどこかで出たはずです。

出なかったとしたら、局そのもののニュース感覚を疑ってしまうところです。
私は、それまでの言動から言っても番組の看板である久米本人が、まず言い出したのでは
ないかと思っています。
もちろん、番組一本撮り直すための費用は半端ではありません。しかし、新しい番組の、
肝心の一回目の中身があれではきっと大勢いたはずの視聴者の期待を裏切ってしまったと
思うのです。

番組の作り方も、久米のよさは生かされていませんでした。
彼自身が番組内で語った「自分が目立たないようにしたい」というのは本心ではないと
思います。視聴者は、黙ってニコニコしながら人の話に耳を傾ける彼を見たいわけじゃ
ないでしょう。ハハハ。

海外と結んでいるために音のディレーがあり、その上通訳が入りますから、かなり細かく
編集処理をしていました。番組全体のリズムが心地よくなかった理由の一つだと思います。
この作り方だと、生は絶対に不可能だし、それが又“当意即妙”の久米の発言が生まれ
にくくなるというジレンマを生んでいました。
事情はあるのでしょうが、収録と放送の間が空きすぎているのも興をそぎました。
4月の3週間強は、アジア各地も日本も季節感が大きく変わる時間です。スタジオ収録の
クイズ番組ならいいでしょうが、「アジアの今」を伝える為にはそんなスケジュールでは
ダメだったのです。
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「クメピポ」とかいう番組もありましたが成功だったとは思えません。
シャープさに欠けていて久米らしさが見られなくなっていました。その後はテレビ東京で
経済番組をやっているのを見ましたが、結局、大きなネットワークを持つ局は久米宏的な
視界は時代遅れと判断したのかもしれません。

厳しすぎるのは自覚しています。でも、これは私のブログだし、関係者が見るわけもなし・・・。
お断りしておきますが、フジテレビOBの私でも、「母局」で変な番組があれば、同様に
クレームをつけます。実際、書いてるし。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2012-10-13 08:30 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(0)
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しのぎやすい日が増えてきました。
今日は3連休の最終日…実は、今日8日が休日とは知りませんでした。とにかく
“毎日が日曜日”状態になってから、曜日は間違えませんが、休日は“うっかり”
見過ごしてしまうことが多くなりました。ハハハ。
土日・休日はアナウンス論と決めているのに用意をしていませんでした。慌てて、
引っ張り出してきたのがこの話です。
8年前のアテネ・オリンピックのときに書いたものをアレンジしました。

WOWOWをごらんの方だと全仏からユーロ2004、ウインブルドン、サッカーの
アジア・カップやオリンピック代表チームの試合、高校野球…とイベントが続き、
この年の夏は大忙しだったはずです。
私自身は、全仏のパリからポルトガルのリスボンに移ってユーロ2004を実況し、
“一時帰国”して、ウインブルドンなどはテレビ観戦してからオリンピックの終盤に、
ニューヨークに向かいました。

いつもそうですが、オリンピックは関心をもって見ました。
やはり、アナウンサーが気になります。中でも民放から参加しているアナたちです。
このとき、ジャパン・コンソーシアム(民放・NHK合同組織)には、日本テレビから
村山喜彦、TBSは林正浩・椎野茂、フジテレビは三宅正治、テレビ朝日は森下桂吉・
中山貴雄、そしてテレビ東京からは植草朋樹の各アナが参加していました。

ベテラン・林アナと最年少の中山アナを除くと、平均年齢は40歳を少しこえた
ぐらいで、アナとしてみんなアブラが乗っていたはずです。
一時は、エース格を自分の局(ユニ)の仕事に回し、「プール」には若手を送る傾向が
あったようですが、このときは働き盛りのメンバーが集まりました。

NHKの顔ぶれをも、かつてにくらべれば平均年齢が下がって、50歳を超える人は
あまりいませんでした。放送量が圧倒的に増えている中で、担当種目によっては、
今日は体操、明日はバレーと、めまぐるしいスケジュールで仕事をこなさなくては
いけないのですから、ベテランにはきついでしょうね。
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以下は、見た範囲での感想です。

民放の中堅組は、NHKにも声が流れるのを意識して“おさえた”感じでしたが、
それなりにいい味が出ていたと思います。

三宅アナは道谷アナ(NHK)と組んで柔道を担当していました。
二人とも得意種目のせいか、競技のポイントを理解した落ち着いた実況ぶりでした。
椎野アナのバレー、飛び込み、村山アナのサッカーも破綻のない放送でした。
「いいな」と思ったのは、水泳の森下アナです。
レースのツボをおさえた的確な実況は聞いていて違和感がありませんでした。
古舘実況だった「世界水泳」も彼中心でやって欲しかったですね。ハハハ。

その後輩、中山アナは当時まだキャリア10年ぐらいではなかったでしょうか?
水泳でも、ソフト・ボールでもがんばりました。レース中の順位の描写に、若干、
疑問がありましたが、自分の10年目を思い出し、ただただ感心するばかりでした。

全体の最年長は、NHKの工藤三郎アナだったと思います。長野オリンピックの
スキー・ジャンプで「立て、立て、立ってくれー」と実況したのを覚えている方も
多いでしょう。ロンドンでは美脚女性タレントと現地のMCをやっていました。
全米テニスに向けて私が日本を出る時点では、出番が少なくて、長嶋ジャパンの
野球しか見ていませんでしたが、2試合とも、ノリがいまひとつの星野仙一さんを
相手に苦戦していました。ハハハ。
放送というのは解説者と二人で“作る”ものですから、テンションが合わないと
かなりつらいです。

このアナウンス論では、あとでまた登場することがあるでしょうが、同じNHKの
刈谷富士雄アナが男子体操の金メダルを伝えていました。
彼のアナウンスに興奮を覚え、感動した視聴者も大勢いらっしゃったようです。
しかし、私の好みで言えば、すこし、「しゃべりすぎ」でした。
かつて、オリンピックに行ったNHKの先輩アナウンサーたちは、現場の興奮に
まきこまれることなく“距離を置いて”冷静に伝える感じがありました。
このときの彼は、周りの騒ぎに“流されて”しまったように聞こえました。
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特に、最後の冨田の演技が始まっている時の、「冨田が冨田であることを証明すれば、
日本は勝ちます」と、フィニッシュに入る直前の「伸身の新月面が描く放物線は、
栄光への架け橋」には、大きな疑問があります。
「ああ、黙った方がいいのになあ」と思いました。
私なら、演技前に「普通の演技ができれば、金メダルは確実です」、フィニッシュに
入る直前には「さあ、フィニッシュです」の一言だけにします。そして、着地後は
場内の歓声が一段落するまで黙ったでしょう。解説者にもしゃべらせません。
ハハハ。

もちろん、テレビの前だったからこそ言える話で、その場にいたら同じことをした
可能性は否定できません。
そして、しゃべった方がいいか、黙った方がいいかは人によって違うはずです。
そこはもう「好み」ですからね。
もっとも、このケースでは“事前に言葉が用意されていた”こと自体が私の主義に
反しました。
「アナウンサーはしゃべることが仕事」ですが、WOWOWに移ってからの私は
「言葉を用意しない。黙ることも大事」をモットーにやっていましたから、こんな
感想を持つのでしょう。
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平泳ぎ・100メートルで金メダルを取った直後の北島にインタビューしたアナに
大きな拍手を送りました。(NHKの人だったようですが、名前は分かりません)
「おめでとうございます」「ありがとうございます」のやりとりのあと、マイクを
自分の方に引き取らないで、北島の前に“残した”のです。
おかげで「気持ちいいッ!チョー気持ちいいッ!」を引き出すことができました。

マイクを残す…これは、話すことを職業としていない人に聞くとき、とても大事で
効果を発揮するテクニックです。
経験をつむと、相手がまだしゃべるかどうか判断できるようになります。
普通は、マイクを引いて 最初の質問に入りたくなるものですが、よく我慢しました。

ただし、あの北島発言は、流行語大賞を意識した、“ネライのひとこと”だったと
思えてなりませんでしたが。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2012-10-08 08:04 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(0)
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オリンピックで女子バレーが銅メダルをかけた韓国との試合に勝ったとき、監督・
選手たちにインタビューした三宅アナの態度・口ぶりがかなりなれなれしかったと、
ネットの一部で非難されました。私も“便乗”しましたが。ハハハ。
アナウンサーも人間ですから、感情があります。普段は 個人としても喜怒哀楽を
抑え込んで実況したりインタビューしたりするのですが、その“たが”が緩んで
しまうときがあるのです。
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2004年、女子バレーのオリンピック最終予選のあと、当時、私が運営していた
HPのBBSでひとしきり話題になったのは、オリンピック出場を決めた韓国戦後の、
フジテレビ・森アナのインタビューでした。

実は森アナは前年のワールド・カップ・バレーのときにも話題になっていました。
強敵・ポーランドに勝ったあとのインタビューで感きわまった彼は第一声が裏返り、
「まずい」と思ったのでしょう。一瞬、間があいたとき 茶目っ気がある高橋選手が、
マイクを持ち去ってインタビューを続けたのです。

まず、選手たちがもらい泣きするなどして大うけ、会場も大爆笑となりました。
「結果オーライで、決してほめられない」と本人はかなり落ち込んだらしいです。
長いスポーツ中継史上でも、ダムが決壊したのかと思うほど泣いたのは珍しいです。
ハハハ。

「やっちゃったよ」と思いながら見ていたのですが、このとき印象的だったのは、
むしろ高橋選手の“機転”でした。まるで「万一のときには…」と打ち合わせが
してあったのかと思うほど見事な間合いでの“マイク奪取”でした。ハハハ。
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そういう「前ふり」があった上での森アナ・インタビューagainです。
日本は、宿敵・韓国に完勝してアテネへの切符を確保しました。
「さて、聞き手は誰だろう?」と見ていると、果たして森アナでした。
はじめから涙声で危なっかしかったのですが、選手たちに「もらい泣きするから
やめてください」とけん制されながら、何度も泣いていました。
たぶん、もともと“感激屋”なのでしょう。

書き込みを読むと、「ぎりぎりセーフ」も含めて、7:3ぐらいで、OKという方が
多かったようです。もちろん、「プロなのに」と厳しい意見があったのも当然です。
立場で言えば、基本的には「まず、冷静に。お前が先に感動してどうする?」です。
しかし、物事は必ずしもそのとおりにはいかないんですよね。そして、もうひとつ、
考えられる背景を書いておきましょう。

フジテレビのバレー担当アナはまず、高校バレーの取材から始めます。
体育館に行くと、たとえ練習中でも 監督がコートに散っている選手たちを集めて
「フジテレビのOOさんだ」と紹介します。選手は声を揃えて「こんにちは!」と
頭を下げ、「よろしくお願いします!」と言って、また頭を下げます。
「フジテレビのOOです。練習を見せてもらいに来ました。ヨロシクお願いします」
と挨拶すると、また「よろしくお願いします!」と勢いよく頭を下げて、コートに
戻っていきます。

学校によっては、この挨拶のときや監督の話を聞くとき、体力づくりの一環として
選手にずっと“爪先立ち”をさせるところもあります。
はじめのうちは練習の厳しさ、激しさに圧倒されます。
「いじめだろう」、「憎んでるみたいだ」と思うほどのことが目の前で展開されます。
取材が入ると監督が張り切ってしまう傾向もありますが。ハハハ。

しかし、それは「愛のムチ」であることが多いようです。
「憎かったらできませんよ」と監督たちは言います。
監督にしてみれば、「できるはずなのに、何故できないんだ」と歯がゆかったり、
くやしかったりするのでしょう。
女子の場合にこの傾向は強く、実業団に進んでも同じような光景が見られました。

こうして始まったアナと選手との“付き合い”が日本代表につながりますから、
「自分たちのチーム、自分たちの選手」という思い入れ、感情移入が強くなるのは
仕方がありません。自分が育てた…と思ったりしますから。ハハハ。
その彼女たちが苦しい戦いの末に大きな勲章を手に入れた…はるか昔に、同じ道を
歩んだ私には、森アナの気持ちが手にとるように分かったのです。

このときの判定も、「その気持ちは、むしろ大事。結果もよかったんだから、まあ、
いいんじゃないの」と大甘でした。ハハハ。
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“嫌味で、非情で冷たい男”と誤解している人も多いようですが(ハハハ)、私自身、
若いころから涙もろい方でしたから、「そういう場面に出くわしたらオレはいったい
どうなってしまうだろう?」という不安が常にありました。
77年のワールド・カップで優勝インタビューを担当しましたが、このときの選手は
みんな“オトナ”だったせいでしょうか、泣くことはありませんでした。

実況人生で一番危なかったのは、2003年USオープン・テニスで、サンプラスの
引退セレモニーをお届けしたときでした。
1992年にテニス中継を始めてから、彼が史上最高のプレーヤーと呼ばれるまでに
成長する過程をつぶさに見ました。大好きな選手でした。
その彼が司会者に呼ばれてコートに姿を見せたときスタンディングオベーションが
長く、長く続きました。見る見るうちに彼の目に涙があふれていきました。
なんとかこらえようとする、その顔が激しくゆがみます。
とたん、私の胸にもこみ上げてくるものがありました。あと数秒、このシーンが
続いたら、危なかったでしょうね。わが実況人生で最大のピンチでした。ハハハ。
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by toruiwa2010 | 2012-10-07 09:50 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(6)
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2004年3月末、久米宏さんの「ニュースステーション」が終了しました。
古舘伊知郎の「報道ステーション」も視聴率が好調のようですが、「Nステ」は
一種の社会現象でした。“見ないと一日が終わらない”人が大勢いました。
“司会者”がニュース番組を切り回すという手法はそれまで日本のテレビ界には
なかったと言っていいでしょう。その司会者、久米宏が発する圧倒的なオーラ、
斬新なセット…どれをとっても、注目を集める要素を十分に持っていました。

話題になっていましたので、ライバル局の番組ではありましたが、初めのころは
よく見ていたものです。しかし、しばらくすると見なくなってしまいました。
理由のひとつは、番組の“売り”である久米個人のキャラクターや、彼が自分を
“演出する”、そのやり方に辟易してしまったからです。

才能のすばらしさは素直に認めなければいけません。
思い出すのは、今から40年近く前の若き日の彼です。たまたま乗ったタクシーの
ラジオで、名前だけは聞いていた 売り出し中の彼の声を初めて耳にしました。
永六輔司会の番組、「TBS土曜ワイド」で外回りのレポーターをやっていたのです。
短い持ち時間の中に、独特の視点からしっかり自分らしさを出したレポートでした。

この“視点”を持っていることこそ、最後まで久米宏の強さだったと思います。
レポートの原点は「その場にいなくては分からないことを伝える」です。
このことひとつをとっても、ほかのレポーターとは違っていました。
とことん研ぎ澄まされた感覚で、感じたことをそのまま自分の言葉に置き換え、
明るくテンポのいいしゃべり口でリスナーに伝えていました。
ほめすぎかも知れませんが、「こんなやつがいるんだ」と、同業他社の後輩アナに
びっくりしたのは事実です。

初めはラジオ中心に活躍していました。そこで、彼の基礎は出来上がったのだと
思います。テレビに登場すると「ぴったしかんかん」で軽妙な司会ぶりをみせ、
歌番組、「ベストテン」でも大人気でした。
その後フリーになって日テレでやった生番組「ニューススクランブル」はかなり
面白い番組でした。“リスキーな”漫才師・横山やすしとの間にうまれる緊張感と
スリルがたまらなかったのです。ハハハ。

世の中の出来事を二人がアドリブで切っていくのですが、キャラクターの見事な
コントラストと、いつ何を言い出すか分からないやすしを巧みにコントロールする
久米のワザが冴えていました。

そうした経験を集大成したものが「ニュースステーション」だったのでしょう。
ただし、はじめは、「さすがだなあ」と感じ入りました。しかし、やがて、やり方が
気になり始めました。
何よりも、「これはずるい、フェアじゃない」と思ったのは、CMに行く直前に放つ
“捨てゼリフ”でした。
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申し子といってもいいほど、「放送」を熟知しています。
CM前の10秒のカウントダウンに合わせて、ゲストの発言を否定するような一言を
“放りこむ”、あるいは、そのコーナーで話し合ったテーマについての自分の考えを
結論であるかのようにコメントすることなど、彼にとってはいとも簡単です。
海千山千の国会議員でも、口達者な評論家でも、放送の仕組みまでは分かりません。
反論しようとしてもそのときにはもうコマーシャルに入っていて、戻ったときには
別の話に移っています。
「10,9,8・・・」フロア・ディレクターが両手の指で残りの秒数を示すのに合わせて、
反論の余地を与えない絶妙のタイミングで発言するのはタチが悪いです。ハハハ。
結果として、視聴者には彼の言葉が印象深く残ることになるのです。

このことは多くの人が指摘し、批判しました。しかし、本人はいわば“確信犯”、
すべて承知の上でやっているのですから、やめる気配はありませんでした。
田英夫、筑紫哲也、俵孝太郎、木村太郎…彼以前の“大物”キャスターたちにも
見られなかったことです。
だからこそ、お茶の間の目には新鮮に映り、“アンチ久米”を上回る、熱烈な
久米ファンが生まれたのでしょう。

“ニュースの送り手は事実を伝えることに徹し、判断は視聴者に任せるべきだ”と
考えている私にとって「Nステ」の最終評価は「NO」でした。
しかし、テレビの世界にまったく新しいニュースの伝え方を示し、確立した功績は
大きなものがあります。その意味で、日本のテレビ史に久米宏の名前がしっかりと
刻まれるのは間違いありません。

大きな功績に比べればとるに足りないことですが、陰で見過ごされていることに
触れておきます。功罪の「罪」の部分です。

それは「亜流」を作ってしまったことです。
それほど影響力が大きいということですが。ハハハ。
当時のテレビ朝日には、久米とよく似たしゃべり方をするアナウンサーが何人も
いたような気がします。女性にもいましたから驚きです。
残念ながら、形は似ていても、内容もキレもまるで違います。

亜流を作ったという点では 代わって登場した古舘伊知郎にも同じことが言えます。、
偶然の一致でしょうか?二人とも、きわめつきのアクの強さが持ち味です。
だからこそ、視聴者の神経が反応するのでしょう。
今までにないスタイルを編み出して、それを「個性」にまで結晶させたところに
値打ちがあります。そして、それが人気になったり、一定の評価を受けたりすると、
若いひとが同じ方向を目指すようになるのはどの世界にも見られる現象です。

ある局で、大人気のアナウンサーが生まれると、必ずといっていいほど、それを
真似る後輩アナが現れます。なぜ、先輩、上司が注意しないのでしょうか。
形だけ真似しても、実力が伴わなければ、所詮“久米もどき”“ミニ古舘”以上には
なりえないはずなのに。

「罪」とは言っても本人にはまったく責任のない話でしたね。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2012-10-06 08:51 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(9)
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イカルガノサトニツラナルナダラカナヤタキュウリョウ
「いかるがの里に連なる、なだらかな矢田丘陵」…


流れてくるのは、だいぶ若いころのものですが、間違いなく私の声でした。
フジテレビ入社以来、ラ行、ダ行、ナ行が苦手、特に、それがつながった言葉は、
出来るだけ避けていました。いざとなると、「意味は変わらないので、こうしても
いいですか?」と、自分が読みやすい言葉に置き換えてもらってニュースを読んだ
こともあります。ハハハ。
冒頭の文章などは、「カンベンしてくれよ」という心境で読んだに違いないのですが、
驚いたことにひとつひとつの音がきちんと出ているではありませんか!

だいぶ前ですが、何かを検索しているときに“ナレーション 岩佐徹”という文字を
見つけました。さらに検索を続けてたどり着いたのは「古都奈良に十三佛を訪ねて
大和路・悠々散歩」と題する4本セットのDVDボックスです。
すぐに頭に浮かんだのは「?」です。
ナレーションを頼まれた記憶はかすかにあるのですが、出来上がった作品は手元に
ありません。そうなると気持ちが落ち着かないので、ネットを通じて購入しました。
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WOWOWに出向して数年たったころ、つまり、私は50歳を過ぎていたはずです。
8年半ほど、マイクの前を離れていたあとにしては口もよく動き、滑舌もそれほど
悪くありません。「これなら、商品になっていても恥ずかしくはないかなあ」という
“自己評価”です。ハハハ。

“ナレーション”という仕事は、もともとはアナウンサーがやっていたものですが、
いつのころからか、俳優やタレントたちによって“荒らされ”始めました。ハハハ。
NHKが「シルク・ロード」のナレーターに石坂浩二を起用したときは、読み方も
アナウンサーに近く、雰囲気もよかったのでそれほど違和感がなかったのですが、
しだいに、声そのものにはインパクトや魅力があっても、“読み”のテクニックは
持っていない人たちが始めるようになると、猛烈に腹が立ってきました。

アナウンサーは、文章の内容を汲んで、それが聞いている人に伝わるように読む
訓練を受けています。ですから、テクニックでは負けるとは思いません。
しかし、声に特徴がある有名な俳優たちが読むと、声の魅力が前面に出て、読みが
うまいかどうかはもはや関係なくなってしまうところがあります。
そうなると、どちらかというと、個性を消すように教育されているアナウンサーは
太刀打ちできなくなるのです。 「うまいとは思わないけどなあ」と口惜しがっても
どうにもなりません。犬の遠吠え。ハハハ。

それでも、美声とは言えないものの、耳障りな声ではないことや癖のない読み方を
していたせいか、40年を超えるアナウンサー人生の中でたくさんのナレーションを
やらせてもらいました。
商品化されていて、手元にあるものを列記すると以下の通りです。

DVD
HISTORY of FOTBALL(THE BEAUTIFUL GAME) 6本セット
UEFA EURO 2004 PORTUGAL 3本セット
HISTORY of WIMBLEDON 2本セット
ウインブルドン・オフィシャルフィルム2004
ウインブルドン・オフィシャルフィルム2005

Video
高橋勝成や江連忠によるゴルフのレッスンものを多数やっています。
’94マスターズ、’95マスターズではジャック・二クラウスの声を吹き替えたことも
あります。実技は100を切るかどうかでも声だけはニクラウス・クラス。ハハハ。

商品になっていないものの中にも、記憶に残っているものがたくさんあります。
1988年に昭和天皇が亡くなったとき、全番組を中止して追悼番組を放送しましたが、
その日に流されたVTRの中に自分では一番気に入っている“作品”がありました。
残念な世界大戦から戦後の驚異の復興まで、激動の時代を生きた昭和天皇の生涯を
たどる壮大な物語です。

天皇が亡くなることを崩御(ほうぎょ)と言います。
陛下が70歳前後になられたころから、新聞・テレビなど各メディアは、いつか
やってくる崩御の日を“Xデー”と呼んで、その際に載せる記事や放送する番組の
制作に着手していました。
特にテレビの場合、まだ確定していませんでしたが、崩御されてから数十時間は、
ほかの番組を全部中止して特別編成(CM抜き)になることは分かっていましたから、
その時間を埋めるためのVTR制作の作業は早くから始める必要があったのです。

そして、フジテレビがまず手をつけたのがこの“一代記”でした。
今となっては正確な年代は思い出せませんが、私にナレーションの依頼が来たのは、
たぶん1970年代の初めだったと思います。入社から10年前後、仕事も気持ちも
最高に“乗って”いたころです。指名を受けたことがプライドをくすぐりました。
本来なら“報道系”のアナウンサーがやる仕事だからです。横取り。ハハハ。
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実際の作業は遅々として進みませんでした。
膨大な量の素材を集めて30分ずつに編集し、ナレーション台本を作るのは想像を
絶する時間と労力を必要としたはずですから、しかたがありません。
2年に1本ぐらいのペースでしたから、結局、私がナレーションをつとめたのは
最初の4本(2時間分)だけでした。それだけでも収録には6,7年の歳月がかかったと
記憶しています。メジャー中継のための海外出張が増えたり、報道局への異動が
あったりしたために、残りは2人の後輩が担当しました。

下読みにたっぷりと時間をかけ、ディレクターの指示できわめてゆっくりとした
ペースで、心をこめて読んだ日々が思い出されます。

あるひとつの人生を語るとき、それを一国の歴史になぞらえることが出来る
人生に揺籃の時代あれば、国に草創期の苦闘の歴史あり
人生に青年客気の時代あれば、国に狂瀾怒涛の歴史あり
人生に成熟の時代あれば、国には爛熟した文化の時代がある

我々がいま、昭和という時代の終焉にあたって大行陛下ご一代の足跡をたどるとき、
まさしくそれが一国の歴史でありひとつの人生と呼ぶにはあまりに歴史的な人生で
あったことを痛感せずにはいられない。


昭和天皇の崩御は1989年1月でした。
最初の収録から15年以上の時間が経過していたことになります。
88年9月からWOWOWに出向していた私はこの日の放送を自宅で見ました。
亡くなったばかりの昭和天皇の幼少時からの映像を見ながら、聞こえてくる自分の
ナレーションに、特別な感慨がありました。

“その日”の空気を頭に入れて充分に読み込み、読み終えたときには、自分なりに
大きな満足感があったのですが、録音の日から40年近くの時間がたった今 聞くと、
「声が幼い」「深みがない」という印象は免れません。
当時の私は35歳を過ぎたぐらいです。こういうものを納得がいくように読むには
もっと年輪が必要だったのだと思います。

スポーツ実況やニュース・キャスター、リポーター、バラエティ番組の司会などに
くらべると、ナレーションははるかに地味な仕事です。
しかし、考える以上に奥が深くてアナウンサーとしてはやりがいのある分野です。
そして、忘れてならないのは読むことは、分野を問わず アナウンサーにとっては
基本中の基本だということです。
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狭いブース、目の前の重厚なマイク、原稿を置く机に貼られているすべり止めの
グリーンのフェルト…自分が最も楽な姿勢で腰をおろし、ヘッドセット・マイクを
つけてその重さを感じつつ、カフの調子を確かめて、ディレクターのキューを待つ。
体の中心から静かな興奮がわいてくるのを感じる瞬間です。自分で十分納得できる
読みが出来たときの“達成感”はやったものでないと分からないでしょう。

どういう効果を狙っているのか分かりませんが、最近は売れっ子の俳優・女優を
起用しているケースが目につきます。テクニックも何もないその読みを聞きながら、
「結局、ディレクターが、打ち合わせを含めて2,3回会えるからじゃないの?」と
ひそかに毒を吐いています。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2012-09-30 10:29 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(4)
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1979年2月のある日、私は豊田泰光さんと並んで
ホノルル・スタジアムの放送席にいました。
この年から新たにスタートした西武ライオンズが
ブラデントンでのキャンプを打ち上げて日本に帰る
途中、ここでメジャーのサンディエゴ・パドレスと
オープン戦を戦ったのです。
私はそのあとメジャーのキャンプを取材するために
アメリカ本土に向かう途中でした。
西武グループがクラウンライターから球団を買収し
本拠地も九州から所沢に移したライオンズは親会社の
豊富な資金を使って、多くのチームがほしがっていた
松沼博久・雅之の兄弟をセットで獲得していました。
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その試合で松沼兄弟が投げたことは覚えていますが、「どちらが先だったかな?」と
記憶をたどっても思い出せません。70年代終盤の話ですから、私には無理です。
2008年の春先、幕張のマリンスタジアムで解説者の“兄やん”こと松沼博久さんに
会いました。29年ぶりです。野球実況“復活途上”の私は、翌日初めてコンビを
組んで実況する予定でした。名刺を渡して挨拶をすると、「名前は聞いていましたが、
プロ野球ニュースで接点がありましたっけ?」と聞かれました。
「なかったと思います。でも、松沼さんがホノルルでのオープン戦で投げたのを
実況しました。そういう接点はあります」と答えました。

翌日もその話になり、ラジオの解説で来ていた弟の雅之さんも加わってしばらく
思い出話に花が咲きました。少しでも会話が途切れると誰かが「30年かあ」という
言葉を口にしました。感慨をこめて。
当時の私はアナウンサー生活17年目を迎えるところでした。分野は違いますが、
立派な実績を残してすでに現役を退き、今は解説者として仕事をしている彼らと、
ブランクをはさみながら、まだ現役を続ける私…「思えば遠くに来たもんだ」です。

誕生したばかりの球団に入団し、プロとして第1歩を踏み出した記念の試合なのに、
どちらが先発だったかをハッキリとは思い出せませんでした。2人とも…。
私が覚えていないのは当然でしょう。ハハハ。
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オープン戦3試合で“肩(舌?)慣らし”をしたあと、3月28日のオリックス戦、
4月16日の楽天戦、23日の西武戦までテレビの実況を3試合“消化”しました。
ペースがつかめないまま終わった1回目、自分では70点と採点した2回目…
3回目は、もう少しいい放送をしたかったのですが、やはり、70点を上回る実況は
できていませんでした。

話の合間に入る“まあ”をもっと減らすこと。
文章の切れ目で、母音を引きずらないこと。(「○○ですから あー」など)
テンポとテンションを前回までより10%アップすること。

“気をつけること”として、この3点を小さなメモ用紙に書いて持参しました。
録画を見て気になったからです。放送中も目につくところにおいておきました。
よちよち歩きの子供と同じですから体裁を構ってなどいられません。ハハハ。
初めの二つは実況の部分ではなく、解説者との会話のときなどに多く見られます。
考えがまとまらないまましゃべり出すからです。
聞きづらいので、訓練を受けたアナウンサーとしては出来るだけ減らしたいのです。
少しは改善されたと思いますが、もっと減らさなければいけません。

そして、がっくり来たのは 相変わらず、つまらない間違いが多いことです。
ネット中継の部分だったので気がゆるんでいたのか、ランナーは一人だったのに
二人いたかのようにしゃべっていました。気がついたとき、愕然としました。
バッターのスイングにだまされてストレートなのに「すとーんと落ちました」と
描写しました。スローが出たとき、穴があったら入りたい気分でした。ハハハ。

栗山がボテボテのゴロで塁に出たとき、ヒットかエラーかを知ろうと、放送席に
やがて流れてくるはずの公式記録員の声を待ちながら「さあ、ヒットでしょうか、
エラーでしょうか」とつないでいたのですが、ビデオを見ると、すでにカメラは
スコアボードの“H”(ヒット)を映し出していました。穴があったら…。ハハハ。

ベンチの中でバレンタイン監督と話しているコーチの名前も間違えました。
モニターを見るタイミングが遅く、すぐに画面が切り替わったのが原因でしたが、
言い訳にはなりません。言わなければいいのですから。ハハハ。
一度、“オリオンズ”と、昔の球団名を言いそうになったこともあります。
気づけばいいのですが、この種類の間違いは気づかないことが多いので困ります。

こんな具合で、すべてが“手の内”に収まっている感覚だったテニスにくらべると、
「去年のマリーンズがどうだったか?」も分かっていない状況は不安でした。
常に「どこかで収拾がつかないようなミスをやるのではないか」という“恐怖”と
背中合わせなのです。こわいでっせ。ハハハ。
この気持ちは同業者ならともかく、一般の方にはたぶん、ご理解願えないでしょう。

たとえば、試合のあとのダイジェストを見ながら話すところで、ゴロをバントと
間違えて松沼さんを困らせるミスもありました。重なると、解説者の信頼をいます。
MLB解説のT田だったら返事をしてくれなくなったでしょう。ハハハ。

そんな状態でも、このころは、いずれ“調子”は元に戻ると思っていました。
関係者が時間をも与えてくれれば、「何とかなるかな」と感じていました。
“時間”がどれぐらいかが問題ですが。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2012-09-29 07:23 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(0)
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ハンド・アイ・コーディネーション

この言葉を知ったのはフジテレビで「大リーグ中継」に関わっていた頃ですから、
もう30年以上前のことになります。
野球に限らず、スポーツの世界で引退に追い込まれた多くのベテランたちがこの
HEC =“ハンド・アイ・コーディネーション”、つまり、手と目の連係がうまく
行かなくなったことを理由に挙げていたのです。

選手たちは、①目でボールを認識する ②脳がそれを受けて対応を体に指令する
③それに反応して体が動く…
ざっと、こんな感じでプレーするわけですが、年令とともに①から②、あるいは
②から③への伝達、反応が少しずつ遅れるようになります。アスリートとしての
“老化”が進むと、もう若い頃のようなプレーができなくなるのです。
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たとえ100分の1秒単位の遅れでも、おそらくほとんどすべてのプロ・スポーツで
それは“致命的”でしょう。
ピッチャーの手からボールが離れた瞬間、「カーブだ」と判断できても、体の動きが
遅れたり、正しいインパクトの位置にバットを出せなかったりすれば、ヒットは
打てません。サッカーでも「シュート・コースがある」と、頭では分かっていても、
打つタイミングが少しでも遅れれば、相手が対応してしまいます。 
よく分かる話でした。
しかし、「タング(舌)・アイ・コーディネーション」と形を変えたこの“症状”が、
やがて自分を襲うことになるとは、そのときは想像もしませんでした。ハハハ。

60歳を過ぎたころから、特にサッカー中継などで、目が認識したプレーや選手の
名前を言葉にするまでに時間がかかるようになったことは否定できません。
名前を言ったときには、もう次ぎの選手にボールが渡っていたり、それをカバー
しようと急ぎすぎて間違えたりすることが増え、視聴者の皆さんからお叱りを
受けることが多くなりました。

海外から衛星で送られて来る映像に生で実況をつける「オフ・チューブ方式」の
サッカー中継に取り組んだのは多分WOWOWが初めてだったでしょう。
94-95シーズンのセリエAからでした。
その頃は、ボールを持った選手の名前を的確にお伝えするのは私の得技でした。
「難しいのを見分けてこそプロだろう!」ぐらいの自負もあった(ハハハ)だけに、
目の衰えを自分で認めなければならなかったのはかなりのショックでした。

“スランプ”というのは長い実況生活の中でもサッカーだけで、他の担当種目では
記憶がありません。初めて経験したのは2000年5月でした。

*この件についてはつい先日書いたばかりの記事とダブります。
「突然、襲った“スランプ”~岩佐徹的アナウンス論72~」http://bit.ly/Tw5Bwp

バルセロナの得点者を2度にわたって間違え、「また、やるのではないか」という
恐怖から放送に臨むとき“ネガティブ”な気持ちになったのです。スランプでした。
どれぐらい続いたか覚えていませんが、このときはかなり焦りました。
HECの衰えとは直接関係なかったかもしれませんが、“焦った”以外に年齢による
なんらかの衰えが忍び寄っているのではないかと思ったからです。62歳でした。

初めに書いた通り、この現象は“晩年”を迎えたアスリートが必ず経験します。
松井秀喜もそうだろうし、イチローにも忍び寄っているのでしょう。
気づくかどうか、認めるかどうかは別として。ハハハ。
そして、気づかない、あるいは、認めたくない性質の事柄でもあります。
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…昨日、この記事を書き終えていましたが、今朝、MLBの結果をチェックすると、
イチローは今日も5打数3安打して5試合連続のマルチヒット!
5試合トータルでは20打数14安打で打率はちょうど7割!!
“5-3でも打率が下がるほどのモンスターぶり…”と、どこかのお調子者の記者が
”提灯記事”を書くかもしれません。ハハハ。
この結果を見せられると、イチローに関してはHECの衰えは一時的なものだった
と言われてもうなずくしかありません。
イヤ、今の調子よさこそが一時的なもの…と考えることもできますが。ハハハ。

私は“素直”ですから、衰えを認めました。…ざるを得なかったし。ハハハ。
タング・アイ・コーディネーションの“劣化”は確実に進んでいました。
頭ではどう表現すべきか分かっているのに、言葉にするのに時間がかかるように
なった事実をつきつけられるのはつらいことでした。悲しいかな、現実はとても
厳しいのです。ハハハ。
当時、同年輩のアナウンサーの実況を聞いて、描写の遅れがしばしばあると分かり、
同情するより、私一人ではないんだ、と少しほっとしたものです。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2012-09-23 08:15 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(0)
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動くものから目を離すな

「岩佐さん、あんなところまで見えているんですね。僕なんか気がつきませんよ」
…後輩が妙に感心してくれたことがあります。
すでに報道局へ異動の内示を受けていて、“フジテレビの”アナウンサーとしては
これが最後というバレーボール中継を終えて帰る電車の中でした。
ベンチ後方のスペースで控えの選手がウォームアップを始めたのが目に入ったので、
そのことを伝えただけで、たいしたことではなかったのです。

なぜ、こまかな動きが目に入ったか?
実況アナとして少し認められ始めて間もないころ、「動くものから目を離すな」が
実況のときに心がけるべきことのひとつとして私の中では確立していました。

もともと、スポーツ実況は動くものを描写するのですから、正しくは、「視界の端で
動くものを見落とすな」と言うべきかもしれません。
相撲やボクシングのように競技が行われる場所が限られたスポーツなら、実況者が
“見ておくべきもの”のほとんど全体を目の中に収めることができます。
しかし、野球やサッカーとなるとプレー・エリアが広いですからそうはいきません。

それでも、アナウンサーとしてはちょっとした動きもしっかり伝えたいのです。
野球なら、外野手が守備位置を変える、ランナーがスタートを切る、ブルペンで
ウォームアップが始まった、サッカーなら、ボールに関係ない逆サイドで、選手が
ライン際を上がっていく、ボールの位置より後方のピッチに選手が倒れている…
そういう場面をすかさず視聴者に伝えることこそ、現場にいる実況者の役目だと
思うからです。
「動くものから目を離すな」には、ボールがプレーされていないところの動きを
見落としちゃダメだよ、という意味が込められています。
とうぜん、“資料読み”をしていたら、それはできません。ハハハ。

私のやり方は、プレーが行われている局面に焦点を絞りきらずに、少しぼかして、
できるだけ視野を大きくすることでした。慣れてくると、その中で、普段と違う
動きがあれば気がつくのです。これは私の一種の“得意ワザ”でした。
後輩が感心してくれたのは、相手が“同業者”ですから、嬉しいことでした。
「いや、慣れれば、目に入るようになるさ」と話した記憶があります。
のちにフジテレビを代表するスポーツ・アナウンサーになった彼がこの秘伝の技を
自分のものにしたかどうかは確認できていませんが。ハハハ。
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得意ワザだった…と書きました。
しかし、経過した年月は残酷でした。
BS12チャンネル・トゥエルビで千葉ロッテ・マリーンズの実況がスタートすると、
この得意ワザがすっかり“さび付いて”いることに気づかされました。
野球中継は27年ぶり、実況そのものも2年半ぶりですから、初めは多少サビが
出るだろうという覚悟はしていました。
しかし、3試合も“慣らし運転”をしたあとなのにひどいものでした。

“多少”じゃなかったサビ

試合の途中で、となりに座っているディレクターが何か言いたそうにしていました。
放送中ですから声は出せず、じれったそうに口を動かすのですが、私にはさっぱり
見当がつきませんでした。CMに入ったときに聞くと、「エンドランでしたね。
ランナーがスタートしていましたよ」ということでした。

5-2とリードしたマリーンズが4回裏の攻撃でノーアウト1・2塁から、ヒット・
エンド・ランをかけていました。2塁ランナーが足の遅いキャッチャーだったので
私の頭の中にこの作戦はまったくありませんでした。「えっ!?」という感じです。
普通の作戦なのに…。油断だし、カンも微妙に狂っているのでしょう。トホホ。

窓を閉め切ったブースでしゃべっているせいで、テンションも低すぎます。
ありがちなことですから、こんなことを防げないのではキャリアが泣きます。
経費節減のため、スコアラーはいませんから、自分でつけながら実況しなければ
いけないのに、気がついたらもう2回の表まで進んでいました。トホホ。
このあたり、トホホの連続でした。トホ…。

中盤からは割合安定しましたが、チームや選手の名前を間違えるなど、こまかな
ミスが多すぎて話になりません。全体的には、60点がいいところです。これでは
“商品”にはなりません。

当時のブログにはいろいろ激励の書き込みがありました。期待してくださる方が
いると分かっているだけに、なんとも残念な“ていたらく”でした。
開幕から1週間、2台のテレビでパ・リーグの全試合をチェックしました。CSで
「プロ野球ニュース」も見ました。準備はしたつもりなのに、情ない話しです。
書き始めると反省ばかりです。ハハハ。

やや“前のめり”になりすぎていたかもしれません。
「次は少しだけ肩の力を抜いてやってみよう」と決めました。いつまでも解説者に
助けてもらったのではキャリアが…こればっかりですね。ハハハ。
by toruiwa2010 | 2012-09-22 08:04 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(2)
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…6日連続で球場に通ったのはいつ以来か思い出せません。16日の夜は爆睡でした。
ハハハ。

満員に近い電車に揺られて球場に行き、息子より若い(実際には子供はいませんが)
選手たちと顔が合うたびに「こんにちは」「こんにちは」と声をかけ、世話になる
広報担当者には必ず挨拶をし、どこかで、監督・コーチや選手を囲む輪ができると
必死に駆けつけて少しでも生の声を聞く…気がつくと、40年以上前の“駆け出し”
スポーツ・アナのころとまったく同じことをやっていました。ハハハ。

“人見知り”ではないのですが、私自身に 相手が近づきにくい雰囲気があるようで、
若いころから監督や選手から直接取材することが苦手でした。
フジテレビ時代は「プロ野球ニュース」のおかげでだいぶやりやすくなりましたが、
どこの誰だかまったくわからず、単なる“じじい”になったら、なかなか大変です。
ある日、マリンスタジアムで50代なかばの記者(一般紙の編集委員)に「おいくつに
なられました?」と声をかけられました。「えっ、私を知っている記者がいた!」と
ビックリしました。はるかに後輩のアナウンサーを除くとこんなことはまれです。
“今浦島”状態ですから、少しずつ人間関係を広げていく必要がありました。
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ネット中継で、まず3試合を担当しました。終わったあとの率直な感想は、かなり
厳しいものでした。なにしろ、27年のブランクは“ハンパ”ではなかったのです。
“愕然”という言葉がぴったりでした。
打球が見にくいのは慣れれば、少しずつ改善できると思いました。
「デー・ゲームは人工芝が光って見にくいけど、ナイターになれば大丈夫だよ」と
優しく言ってくれる人もいました。あるいは、モニター画面を見て実況することで
対応できるかもしれませんと考えたりしました。
しかし、日本野球にはご無沙汰でしたから、前年のこともよく分からない始末です。
右利きなのか左利きなのか?若手なのかベテランなのか?ベース・コーチは誰か?
…そんな基本的なことさえ、チームによっては選手名鑑などに“相談”しなければ
いけなかったのですから、ほかは推して知るべし、でしょう。ハハハ。
笑っている場合じゃありません。実況するために最低でも知っておくべきことを
クリアするだけでも相当の時間を必要とします。

それなりに納得できたのは、野球を見る感覚や解説者とのやり取りの部分です。
数十年前に食事をした記憶がかすかにある元巨人の藤城和明さん、ロッテで長く
キャッチャーとして活躍した福沢洋一さん、“ジョニー”の愛称で親しまれ、前日に
引退セレモニーを終えたばかりの黒木知宏さんとそれぞれ組んで放送したのですが、
話の引き出し方はスムーズにできたと思います。
とは言っても、頭に入っている知識は新聞やテレビから得たものばかりですから、
話しているうちに2チーム、あるいは3チームの選手が混じりあって、解説者を
まごつかせることもありました。ハハハ。

帰り道、いろいろ考えました。「かかる時間を考えたら続けちゃいけないな」と。
「ここで結論を出すなら、やめるべきだ」という方向にどんどん傾いていきました。
やめるなら早くしないと、関係者にかかる迷惑が大きくなるからです。
「やめるべき」と考えた理由のひとつは、試合を伝えつつ解説者といろいろな話を
からめていく“自分なりの実況”ができているとは言っても、本当はそこにほしい
選手や監督の情報が少ないことでした。そして、それができるようになるには、
かなりの時間が必要だということでした。
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ロッテ以外のチームのことも知らなければいけませんから、100%野球に集中する
必要がありました。毎日のように球場に出かけないと選手に覚えてもらえませんし、
ある程度、親しくならなければ“いいネタ”を聞き出すのが難しいことは 経験で
分かっていました。しかし、悲しいかな、70歳になろうかという“老いの身”には
その活力がありません。ハハハ。
決して“なめて”かかったのではなく、初めから当然予想していたことでしたが、
実際に動き出してみると、その難しさは予想をはるかに超えていたのです。

さらに大きな理由がありました。
古くからの友人であるプロデューサーは気持ちの優しい男ですから、「ストレスの
かからないように、自分のペースでノンビリやってください」と言ってくれました。
本当にその通りにすればいいのなら、そんなに難しいことではありません。
しかし、アナウンサーの立場としては、現場で一緒に組むディレクターとの感覚が
合わなければ、いい仕事をするのは簡単なことではないのです。

ところが、私の実況をどう感じているのかがまったく伝わってきませんでした。
「大変、結構です」とは言ってくれませんでした。“結構じゃない”のですから
当然ですが。ハハハ。
かと言って、注文もつかないのです。積極的に何も言ってくれないと「気に入って
いないんだな」、「彼が考える方向と違うのだろう」と考えるしかありませんでした。
私にとって、それはある意味、深刻で致命的でした。
一番身近にいるディレクターが同じ方向を向いているのでなければ話になりません。
“2階に上がったけど、はしごを外された”心境でした。ハハハ。

月曜日にプロデューサーと会って率直に気持ちを話しました。
「どうも、僕の放送は現場のディレクターたちが目指しているものと違うみたいだ。
彼らが求めているものをやろうとするとストレスが溜まることになる。先に行って
やめるより、代わりが見つかるのなら、今、降りるほうが迷惑をかける度合いも
少なくてすむのではないか」と。
同時に「代わりがどうしても見つからなかったり、開幕後、人繰りがきびしければ
「“岩佐流”でかまわない」という条件で、いくらでも手伝う、とも伝えました。

意見を出し合い、とりあえず最初の予定だった本拠地での開幕戦、マリーンズvs
バファローズはやることにしました。そして、それ以後は、できるだけ“ゆるい”
スケジュールで協力することで決着を見ました。大げさですが。ハハハ。
帰宅後、プロデューサーの話を聞いたディレクターからもメールが来ました。
彼も「岩佐流でかまわない」ということでした。胸につかえていたものがすーっと
消えていきました。
by toruiwa2010 | 2012-09-17 08:29 | 岩佐徹的アナウンス論 | Comments(2)