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岩佐徹のOFF-MIKE

toruiwa.exblog.jp

実況、ドラマなど放送全般、映画、スポーツ全般、 旅、食、友 etc

カテゴリ:スポーツ全般( 76 )

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…ただし、“野球あたま”はいい選手だと思います。
昔なら稲尾や杉浦、少し前なら江川や桑田…彼らは投げるボールにも
力がありましたが、同じぐらい、頭を使って投げていました。
斎藤には同じタイプのピッチャーになる要素があると思います。
(「もしかして 最高の出来事?~ルーキー~斎藤に故障発生」から)

私が担当した神宮の試合で江川の最後の一球がその日の最速だったことが
あります。 153キロぐらいでした。
神宮のガンは少し数字が出すぎでしたが、それにしてもすごいやつでした。
人間的には好きになれませんでしたが。
ピッチャーとしては最高の部類でした。ハハハ。(コメントへのレスから)

つい先日、斎藤佑樹に故障が発生したときに書いた記事の一部と、いただいた
コメントへのレスの一部です。
急に懐かしさがこみ上げました。
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記録ではなく記憶に残る選手…“通算200勝”は投手にとっての勲章でしょう。
しかし、この数字には届かなくても強く印象に残っている投手もいます。
何人かの名前が浮かびますが、135勝に終わった江川卓はその筆頭です。
球種は少ないのに、優れた頭脳で打者を圧倒しました。
人間・江川についてはいろいろ言われていますが、投手・江川は間違いなく
野球史に残る男だと思っています。

そして、江川を語るとき、小林繁の名前を外すことはできません。
二人の因縁を思えば、彼らがCMで共演することなど夢のまた夢でしたが…


「江川卓と小林繁~“因縁”の二人がCM共演~」07/11/21 

和解の酒バージョン

「どうも、ごぶさたしてます」と頭を下げる江川卓
「何年ぶりかな?」と近寄り右手を差し出す小林繁
江「ごぶさたしてます」
小「何年ぶり?・・・球場では会うんだけどなあ。こうして
話をすることはないんだよね。お互い避けてたんか?」
江「ええ・・・」
小「しんどかったやろなあ」
江「はい」
小「オレもしんどかったけどな・・・二人ともしんどかった」
江「そうですよね」
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申し訳ないと言いたいバージョン

「こういう機会があって、まあ小林さんに、申し訳なかったっていうことを
一言、言えたらいいなあと」
「分かってるんだよ、感情は。分かってるんだけど、避けて通ってきた生きかたを
してるから」
<盃を差し出す二人>
「話して(?)いただいて・・・ありがとうございました」

この黄桜のコマーシャルを撮影した夜、江川卓はひさしぶりに本当の意味で後ろめたさを
感じないでぐっすりと眠れたのではないでしょうか?
二人の間に起きたドラマについてはすでにあちらこちらで語られていますから、ここでは、
「まったく何のことやら?」とおっしゃる方のために、ごく簡単に記しておきます。

高校卒業のときのドラフトで阪急ブレーブスからの指名を拒否して法政に進んだ江川は、
大学卒業の1977年のドラフトでもクラウンライター・ライオンズの指名を断りました。
どうしても、巨人に入りたかったからです。

浪人状態になった彼は、翌年 アメリカの南カリフォルニア大に野球留学しました。
そして、その年のドラフト会議が開かれる直前に帰国した江川は、突然、巨人への入団を
発表します。当時の野球協約に不備があって、彼の関係者がそこをついて巨人との契約を
強行したのです。日本プロ野球史に残る“空白の一日”です。
しかし、野球機構はこの契約を認めませんでした。
巨人がボイコットしたまま開かれたドラフト会議で江川を指名したのは阪神でした。
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すったもんだの挙句、コミッショナーの“裁定”で、彼は一度阪神に入団し、トレードの
形で巨人に移籍することになりました。“いけにえ”にされたのが小林繁だったのです。
江川卓には“ダーティー”、“ヒール”のレッテルを貼られることになりました。
小林は少なくとも“表向きは”恨みがましいことを一言も言わずに阪神に移り、その年は
22勝をマーク、特に古巣・巨人には8勝0敗と負け知らずの結果を残して男を上げました。
これほど、多くの野球ファンの胸がすっきりする結果はプロ野球史でも少ないでしょう。

そんな因縁の二人が28年ぶりに“再会”し、ぎこちなさを感じさせつつ、笑顔を見せて
共演したこのCMを見ると、ひとごとながら「よかったなあ」と思います。
実際には、小林の発言にあるように、球場などで何度も出会っているのです。
なのに、話をするのがほとんど初めてだという事実に驚きました。
それほど二人が受けた“心の傷”は深かったのでしょう。

私がはじめて江川に会ったのは彼が南加大に留学していた1978年でした。
ちょうどその年から始まったメジャー・リーグ中継を終えて日本に帰る途中、ハワイに
寄って“休養”していた私にアナウンス部長から電話がありました。どんな理由だったか
思い出せませんが、「とにかく、ロスに戻って江川に接触しておけ」という“社命”でした。

たいした接触はできなかったと記憶しています。
アメリカでは、他人とルーム・シェアをする場合、「ドア・ノブにタオルがかけてあったら、
“彼女”が来ているサインだから入室してはいけない」というルールがあるのですが、
彼はこの“暗黙のルール”を知らずにドアを開けてしまったことがあるという失敗談を
聞いたぐらいです。ハハハ。
ちなみに、このときのルームメートは、のちにヤクルトに入ったクリス・スミスでした。

江川には、アメリカでの“世話役”だった日本の商社員の家でも何度か会っています。
食後のリビング・ルームで若いきれいな女性がデザートの果物を配っていたことがあり、
「どなたですか?」と聞くと、「親戚の子ですよ」という答えでした。
のちに、彼女こそ江川と結婚した正子さんだったと分かり、「親戚の子…」と答えたときの
すっとぼけた顔を思い出して「江川のヤツ…やるもんだ」と思ったものです。ハハハ。

このときは、すでに巨人への入団が決まっていたと思うのですが、「たとえ、1年目から
20勝できそうでも僕はやりません。日本のプロ野球の年俸制度では、それだとその年は
アップしてもそのあとは勝ち星を増やさなければ上がらない仕組みになっているんです。
だから、1年目は15勝、2年目は17,8勝、3年目に20勝と、少しずつ勝ち星を増やす
ほうがいいんです」と、得意顔で話していたものです。
年度別の成績を見ると、連盟からのペナルティーでデビューが6月になった1年目は9勝、
2年目は16勝、そして3年目に20勝!! “計算”を実行しているのですから脱帽です。

普通に考えたら“イヤミ”な男でしょう。
しかし、入団のいきさつやこういった“計算高い”考え方についての好き嫌いはともかく、
彼が頭の回転のいい男であることは間違いありません。
投手としての力は日本のプロ野球史上でもトップ・クラスだったと思います。
ピンチで主力打者を迎えても、逃げることなく、真正面から勝負を挑むピッチングは実に
魅力的でした。
入団2年目だったと思いますが、担当した試合の最後の1球がその日の“最速152km”を
マークしたときは感動をおぼえたものです。

頭のよさは、解説にも良く出ています。
最近、巨人の試合はほとんど見ませんが、現役を引退して間もないころは彼が解説だと
分かると耳を傾けました。実現は不可能なことでしたが、「組んでみたいなあ」と思わせる
数少ない野球解説者の一人でした。
いつの日か巨人の監督になるのでしょうが、きっと、とてもオーソドックスな野球をやる
いい監督になることでしょう。

“コバ”こと、小林繁は、報知新聞や日本テレビ以外の人間には距離を置いていた巨人の
選手の中では親しくしてもらった一人です。個人的に食事をしたり、酒を飲んだりする
ことはありませんでしたが、グラウンドで顔が合えば普通に言葉を交わす間柄でした。
前にも書いていますが、なかなか選手と打ち解けることができないタイプの私には貴重な
存在だったのです。
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性格はコマーシャルのままと言っていいのではないでしょうか?
見た目だけでなく、中身もなかなか“かっこいい”ヤツでした。
理不尽なトレードをされたときも、言いたいことはたくさんあったに違いないのですが、
いっさい言いませんでした。新庄の“昭和版”でしたね。センスはコバのほうがはるかに
上だと思いますが。ハハハ。

現役を引退したあとの評論家時代に、人を介して連絡を受けたことがあります。
彼が当時の週刊サンケイに書いていたコラムの担当者からで、「最近、メジャー・リーグで
言われ始めている“セット・アッパー”について教えてほしい」というものでした。
クローザーにつなぐ、今なら岡島などがやっている役割のピッチャーのことです。
「直接聞いてくれればいいのに、水臭い奴なあ」と思いつつ、電話口では間違えて伝わる
可能性もあるので、メモ書きしたものをファックスで送った記憶があります。

阪神時代に少々気になるうわさも聞こえてきて心配していましたが、スキャンダルになる
こともなく、このCMで元気そうなところが見られてこんなにうれしいことはありません。

いわば、運命にもてあそばれた二人の“和解”・・・CMという形ではあっても、話し合う
機会が持てて本当によかったと思います。

19日付の朝日夕刊にリスペクトする西村欣也編集委員の「江川 負い目抱えた29年」という
記事があり、その中に…
<<<数時間のCM撮影を終えて江川にやっと安堵の表情がもどった。「いい機会を与えて
もらいました」>>> の記述がありました。

選手時代の二人を知っているものの一人として胸にこみ上げるものさえあります。


*2010年1月、小林繁 逝去 享年57歳だった。
( http://bit.ly/mMtKWD )


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by toruiwa2010 | 2011-05-14 09:25 | スポーツ全般 | Comments(15)
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実況中に困ることの一つに、外国語を日本語に置き換える作業があります。
単語一つでズバッと言いきっている現象をいざ、日本語にしようとすると、
どうしてもだらだらと長くなってしまうことがしばしばでした。
主にアメリカで使われようですが、“choke”、“choker”もその一つです。
“のど(言葉)がつまる”、“窒息する”、“…人”という意味ですが、場面に
ぴったりする日本語がなくて困ったものです。
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0063「CHOKEについて考える」(2005.05)


アスリートが一番言われたくないのは“He's a choker”ではないでしょうか。
プレッシャーのかかる場面になると、どうしても力を発揮できない選手(チーム)がいます。
一度ならともかく、何度も重なれば「あいつは肝心のときにビビるからなあ」と言われて
しまいます。名誉なことではありません。これがチョークです。

テレビも含めて実際に見た中では1993年のウインブルドンが強く印象に残っています。

女子決勝、シュテフィ・グラフvsヤナ・ノボトナ戦は第1セットこそタイブレークの末
グラフが取りましたが、ノボトナは次の12ゲームのうち10ゲームを取って67/61/41と
圧倒的な優位に立って終盤を迎えました。
第6ゲームはノボトナのサーブで40-30、つまり次のポイントを取れば、51になって、
サーブ&ボレーの彼女が夢に見てきた、ウインブルドンの初優勝に王手がかかるのです。
それは、彼女にとって初めてのグランドスラム、タイトルになるはずでした。

しかし、以後、ノボトナは1ゲームも奪うことが出来ませんでした!いくら、対戦成績が
3勝17敗と苦手のグラフが相手といっても、考えにくい展開でした。
この試合を、「20世紀最大のCHOKE」と呼ぶ人もいます。
セレモニーで、ケント公夫人の肩に顔をうずめてすすり泣くノボトナを覚えている方は
多いはずです。この試合を思い出すたびに、勝負の恐さ、勝つことの難しさを思います。
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彼女のCHOKEは更に続きました。
1995年全仏3回戦は67/64/50、相手のサーブで0-40からなんと九つのマッチポイントを
逃がして逆転負け! 
続くウインブルドンSF(vsグラフ)では、第3セットでサーブを5本連続フォルトするなど
あり得ない内容で敗退!
更に、97年ウインブルドン決勝(vsヒンギス)でも、ファイナル2-0から逆転されました。
私たちが救われるのは、彼女が1998年のウインブルドンでとうとう優勝したからです。
それも、QFでビーナス、SFではヒンギスを破ったのですから立派なものです。

勝負どころで緊張してしまう。その気持ちが伝わって体が動かなくなったアスリートを
これまで何度となく見てきました。
キャリアが浅く実力が低いときなら、力さえ備われば脱却できるでしょうが、問題なのは
かなり力をつけてからこの現象が出てくるときです。
いちどCHOKERのレッテルを貼られると、次はそれがプレッシャーになって、ますます
体が動かない…という悪循環になります。取り付かれると厄介な“病気”です。

1978年のボストン・レッドソックスはオール・スターを過ぎても、2位に14.5ゲームの
大差をつけていたにもかかわらず、ヤンキースに逆転されました。
日本でも、1963年の南海ホークスが14ゲーム差をひっくり返されて西鉄ライオンズに
優勝を持っていかれたことがあります。

1996年のマスターズ・ゴルフ最終日、2位を6打リードしていたグレッグ・ノーマンは
“自滅”して ニック・ファルドに逆転されました。オーガスタの歴史に残るCHOKEです。
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さらに、1999年のチャンピオンズ・リーグ決勝ではロスタイムに2点を失ったバイエルン・
ミュンヘンがマンチェスター・ユナイテッドに目の前のビッグ・イヤーをさらわれています。

世界選手権では無敵なのにオリンピックでは勝てなかったスピード・スケートの鈴木恵一。
綱とりの場所になると、とたんに情けない相撲になる魁皇。
大きな期待を背負ってオリンピックに出ても、自己記録さえ出せないで帰ってきた一時の
水泳や陸上の日本代表たち…挙げはじめたらキリがありません。

応援している選手(チーム)がこの中に入っていたらごめんなさい。
お断りするまでもなく、みんな一生懸命なのは分かっています。
しかし、ここというときに何度か期待を裏切られると、お気楽なマスコミや観客は情け
容赦なく、このレッテルを持ち出してくるのです。
アテネで意外な負け方をした井上康生や、勝利目前で急ブレーキがかかって大きな獲物を
逃がすモレスモーをチョーカーと呼ぶかどうかは、人によって答えが違うでしょう。

まあ、ダバディが全仏優勝候補の中に名前を挙げてるようなのでとりあえずモレスモーは
はずしときますか。放送でもチーム・ワークは大事ですからね。ハハハ。

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by toruiwa2010 | 2011-04-23 09:03 | スポーツ全般 | Comments(8)
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今年の日本プロ野球はすでに敗者が決まってしまいました。
加藤コミッショナーとセントラル・リーグです。ハハハ。
“低タラク”は菅政権だけにとどまらないようです。
パシフィック・リーグが選手の意志とファンの思いを汲んで早々と4月12日に開幕を
ずらしたのに比べて、セントラル・リーグのもたつきはみっともないものでした。
しかも、指導力を発揮しなければならない立場のコミッショナーが、まるで機能せず、
球界内外の信頼を失いました。
対照的だったのは、一貫して、理性を保った形で選手の考えを訴え続けた新井選手会長の
言動でした。彼を3月の“月間MVP”に推したいと思います。ハハハ。

プロ野球界でごたごたが起きると、“ONのどちらかをコミッションナーに”という声が
しばしば聞こえてきます。
Oは見識もあり、人柄も十分ですからいいでしょう。しかし、あれだけの屈辱を受けても
読売グループにとどまったNは無理です。厳しい裁定を求められる局面で、巨人に不利な
意見を言える人ではないでしょうから。
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しかし、それはそれとして、長嶋茂雄と同世代の人間にとって、この人への“愛情”には
少しも変わりません。

その長嶋さんが病に倒れてから7年の歳月が流れました。
“病気”の2文字がこれほど似合わない人もいないと思っていました。いつお会いしても、
気力が充実し、人を楽しませることが大好きなひとでしたから。

ニュースで歩く姿を見ても、回復は思うように進んでいないようです。
本人は喜んでいるのかもしれませんが、読売グループがうまく“利用して”いるように
見えて仕方がありません。お気の毒です。

以下は、入院5日目に更新した記事です。

「拝啓 長嶋茂雄さま」 (2004.03.09)

拝啓 

長嶋さん、突然思いもかけないニュースに接して、大変心配しています。
ミスターのことですから、きっと回復して、元気な姿をまた見せていただけると信じて
いますが、心配なのは、“とりあえず”なおったあとのことです。
倒れた直後から「アテネはどうなる?」という声が多かったのに驚きました。
その気持ち 理解できないでもありませんが、問題は、そういった言葉がきっと長嶋さんの
気持ちに影響を及ぼすだろうということです。

直接お話しする機会があったとき「学生時代から、どう捕って、どう投げたらお客さんが
喜ぶかを考えていた」とおっしゃっていたことを思い出します。それほど、長嶋さんは
サービス精神のきわめて旺盛な方、気遣いの方です。
たぶん、奥様のアドバイスがあったのでしょうが、長嶋さんは、会話の中にできるだけ、
相手の名前を入れるようにしていらっしゃいました。言われた人が喜ぶことを十分心得て
いらっしゃったのでしょうね。
テレビ出演のときなどにも、常に司会者や聞き手の名前を意識的にはさんでいました。
そういうやり取りは見ている者に、両者の関係が単なる聞き手とゲストではなく、親しい
関係にあるという印象を与えます。
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92年の8月、全米オープン・テニスの会場で数年ぶりにお会いしたときもそうでした。
フジテレビ時代に、選手・監督と取材者の立場で20年以上のお付き合いがありましたし、
81年のワールド・シリーズ中継では2週間近くをご一緒したとはいえ、長いブランクが
あるから覚えていらっしゃるかなあと、多少、不安がありました。
このとき長嶋さんは、TBSのゲスト解説者としてのニューヨーク入りでした。
白いスーツで、さっそうと棟続きのお隣の控え室からWOWOWの部屋に入ってくるなり
「やあ、イワサキさん、おひさしぶり」と右手を差し出されました。惜しい!! ハハハ。
初対面の人間だけでも、毎日、数十人、100人を超えることもめずらしくないのですから、
間違えることもありますよね。

ご存じなかったと思いますが、「プロ野球ニュース」用に三分間のインタビューをとるとき、
優等生は王さん、ディレクター泣かせは長嶋さんでした。
王さんはインタビュアーさえしっかりしていれば、ほとんど編集なしでも放送に使える、
まとまった話をしてくれました。一方の長嶋さんは、編集が大変だったんですよ。
いい話をしようというサービス精神の結果として、ひとつの話の中に主語が三つ、四つ、
述語はもっと多くなります。結局、「言語明快、意味不明」の文章になってしまうことが
しょっちゅうでした。その“とっちらかり”ぶりが実におかしくて、私たちはこの上なく
喜んだものでしたが。

私が、試合以外で「ナマ長嶋」にはじめて接したのは、1963年の夏の終わりでした。
入社1年目から「プロ野球ニュース」要員にしてもらい、暇さえあれば、大張り切りで
通っていた後楽園球場でした。
試合が終わると、選手たちはロッカーへ直行していましたが、その手前の「サロン」と
呼ばれる部屋に二人の選手が足を止めていましたね。入ってすぐ右のソファに長嶋さん、
左奥のソファに王さんがどっかと腰をおろし、勝っても負けても大勢の報道陣の質問を
受けていたものです。

押しも押されもせぬ巨人の看板選手に対して、ベテラン記者の中には、まだ新人時代の
呼び方で「長嶋」「シゲ」と呼ぶ人もいましたが、やがて「ミスター・プロ野球」の意味で、
「ミスター」と呼ばれるようになりました。
とてつもないオーラが出ていて、新米アナウンサーは、ひたすら先輩記者たちとの間で
交わされる会話をメモするのが精一杯でした。

相手の内懐に入るのが下手だった私が、マイクを持たずにお話をするようになったのは、
かなりあとになってからのことです。それも、たぶん新聞でチェック済みなのでしょう、
バッティング練習を終えたあとなどに「今日は岩佐さん、中継でしょう?」と声をかけて
いただくことのほうが多かったと記憶しています。
それほど、ミスターは、どんなときにも気配りを忘れない人です。
81年ワールド・シリーズのときも、帰国した後お誘いがあり、西麻布のフランス料理店で
スタッフ全員がご馳走になったうえ、帰りには一人ずつエルメスのネクタイをおみやげに
いただくという、とんでもないご接待を受けてしまいました。
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そんな、人を喜ばせることが大好きなミスターが、退院後に国民の期待を耳にされたら、
きっと「もう一度、ユニフォームを着たい」とお考えになるに違いありません。
そこが私の、一番心配な点です。
長嶋さんのおつらいのは、普通に病気から回復するだけでなく“あの長嶋さん”として
復帰しなければ、世間が納得しないところでしょう。それは生易しいことではありません。
「無理をして欲しくない」という一茂さんの言葉はよく理解できます。

みんなの期待が大きければ大きいほど、それに応えようという気になるのがミスターの
最高の美徳だとは分かっています。しかし、幸いなことに、同じ時代を生きてきた者の
一人として、いまはオリンピックを初め、すべてを忘れて、ただ、健康を取り戻すことに
全力を注いでいただきたいと切に願います。

1974年10月14日夕方の後楽園球場を思い出します。
長嶋さんの現役最後の日でした。私もスタンドで見ていました。思い切り泣きましたよ。
日本中で、いい年をしたたくさんの大人が人目もはばからず泣いた日でした。
いまは、長嶋さんのプレーを実際に見たことのない若い世代の人たちと一緒に、お元気に
なることを心から祈るばかりです。

「私たちの長嶋茂雄は永遠に不滅」と念じつつ。
                                    敬具

昨日メジャー・リーグが開幕してしまったので、大あわてて、日本人選手について
期待とノルマを書いた記事があるのですが、“今月から通常営業”と書いた通り、
週末はアーカイブからの更新にして、その記事は月曜日に更新することにしました。
今、ツインズ・西岡剛のデビュー戦を見ていますが、ここまではみじめな結果に
なっています。“予感”を書いていただけに残念です。
“結果論”だと非難されないように更新するときは少し書き変えないと。ハハハ。


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by toruiwa2010 | 2011-04-02 09:33 | スポーツ全般 | Comments(5)
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0374「Qちゃん」

「想定外」の最後に書いた東京国際女子マラソンはいよいよ明日、行われます。
「高橋尚子を応援する」と書きましたが、ちょっと… いや、相当に雲行きが怪しいです。

日本に帰ってから脚の故障が発生したそうです。
右脚3箇所に軽度の肉離れがあることを、昨日の会見で明らかにしています。
「無理をすると北京五輪にも影響する」と警告した医師に対し「痛みは我慢できる範囲」、
「痛みが増したら途中で棄権する」と約束したそうですが、信じられません。
マラソン・ランナーの体、特に脚は極めてデリケートだと言われています。
オーバーに言えば、競技人生を賭けて出場を強行する理由は何でしょうか?
この日刊スポーツの見出しには「尚子には走る理由がある」とありますが、納得の行く
中身は見つかりません。
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私の勘は、明日のスタート地点に彼女の姿がない可能性はかなり高いと告げています。
「ウガチすぎだよ」と非難されることを覚悟の上で書くのですが、主催者(テレビ)や
スポンサーとのしがらみで、このように発言せざるを得なかったのではないでしょうか。
彼女を「売り」にして高い視聴率を稼ぎたいと、ここまで盛り上げてきたテレビにとって、
レースの前に彼女が“消えて”しまうのは最悪の事態です。
少なくともレースが始まる時点では、なんとかして、視聴者をテレビの前に座らせたい…
No1の義務との思いで、彼女にこう言わせた…考えすぎならいいですが。

ゴルフの宮里藍は、先週のトーナメントを足の故障で欠場しましたが、直後にタイガー・
ウッズとエキシビション・マッチをやり、今週は大会に復帰しています。
「やれるからやっているだけ」というのなら、それはそれでいいでしょう。
しかし、競技者人生を長いスパンで考えたいと思っても、いろいろな“しがらみ”に
邪魔されることが日本人アスリートには多いような気がしてなりません。
たとえばメジャーでは、選手が怪我をした場合、その復帰には神経質です。
選手寿命をできるだけ長くさせるために球団ぐるみで取り組むのです。

長い休みのあと、マスターズ・カップに出場しているフェデラーについて、「No1の自覚が
そうさせたのではないか」という主旨の書き込みがありましたが、それはないと思います。
“No1の義務・責任”に「怪我を押してプレーすること」が含まれているとは思いません。
母国スペインのマドリード大会で優勝したナダルは、かなり無理をした気配があります。
しがらみがあったのかどうかはわかりませんが、結局マスターズ・カップを含むその後の
大会には出られませんでした。大きな代償を払ったことになりますね。
フェデラーは、足の故障で出身地・バーゼルのトーナメントさえ欠場しました。
もちろん、マスターズ・カップと比べれば重みがまるで違います。しかし、どんなに
大事な大会であっても、ダメならば出なかった、逆にいえば、出られる状態だったから
出たのだと、私は思うのです。

トップ・プレーヤーの義務として求められるのは、大会を欠場するとき、会場に行って、
お客さんに挨拶するところまでではないでしょうか。ナダルがそうしたように。

さあ、高橋尚子は明日スタートするのでしょうか?
もし、スタートしたら、罰としてスポーツ刈りにしましょう。ハハハ。(2005.11.19)
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0376「深謝」

2005東京国際女子マラソン
優勝 高橋 尚子 2時間24分39秒

おめでとう!!
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高橋尚子、記録こそ平凡ですがあざやかな優勝でした。
見事に「だまされた」というべきかもしれません。ハハハ。
何を言っても言い訳になります。
素直に「大変、思わせぶりなことを言って、お騒がせしました。申し訳ありません」と
申し上げておきます。

インタビューでの彼女の言葉も立派でした。
いつも、この人の一生懸命さは、人の胸を打ちます。
小出前監督の笑顔もよかった。今も、見えない糸でつながっているように見えました。

本当のところ、脚の状態はどうだったのか、ぜひ知りたいですが、決して表に出てくる
ことはないでしょうね。
今となっても、おとといの記者会見の中身にはいくつもの疑問が残っています。
…いやいや、どうしても、ボヤキになってしまいます。やめておきましょう。ハハハ。

「スポーツ刈り」については、しばらくお待ちください。(2005.11.20)


0383「お約束」

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45年前、大学2年(22歳)の私です。
この髪型は高校3年から、フジテレビ入社8年目ぐらいまで続きましたが、この頃の私は
「たわし」「しばふ」と呼ばれていました。
何よりも洗った後すぐに乾くことが嬉しかったです。ハハハ。
当時は、まっすぐで固い髪がうるさいほどたくさんあり、それで「たわし」「しばふ」と
呼ばれるようになったのです。
今回、ほぼ35年ぶりでスポーツ刈りにしました。
聖書に手を置いて誓ったわけじゃありませんし、自分のブログに書いたことで罰ゲームを
やる必然性もないと思いますが(ハハハ)、世間には、冗談もしゃれも分からない人が結構
おいでですから、とりあえず、言ったとおりにしてみました。
写真で見るとこれまでとあまり変っていないかもしれません。
周りの誰もが気づかなかったぐらいですから、変化がないっちゃ、ないんですが(ハハハ)、
それは私の責任ではありません。

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左は、少し伸ばしてアイパーをかけていた3ヶ月前(US Open)、右は今日思いきってバッサリやってもらったスポーツ刈りです。あまり変わっていないように見えますが、本人には顔つきが変わったような印象があります。どちらにしても、アルバムから引っ張り出した45年前の写真と比べると、考えさせられることが多いです。
「男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」「男の顔は履歴書」などと言いますが、まあ、
貫禄がないこと。ハハハ。

若い頃から年齢相応にみられたことがありませんでした。プロ野球の取材をしていても、
若いと思われるせいか軽く見られることが多くて、何度悔しい思いをしたか分かりません。
ハハハ。

顔はあまり老けないのに、髪は薄くなりました。これ以上頭を下げると「危ない」んです。
ハハハ。
サッカーのスタジオ部分で謝らなければいけないことがあるとき、言葉は謝っても、顔は
まっすぐカメラを見据えていました。“決して、頭を下げないアナウンサー”…ハハハ。
今はもう、「顔出し」があるわけじゃないですから、関係ありませんが。(2005.11.22)

…今日は東京国際マラソンが行われます。
こまかいことは知りませんが、以前は、11~12月に独立して行われていた
女子マラソンが今はこの時期に“共催”の形になっているようです。

この3本の記事は2005年の東京女子マラソンについて書いたものです。


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by toruiwa2010 | 2011-02-27 08:03 | スポーツ全般 | Comments(2)
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運動神経はいいほうでした。少なくとも若いころは。ハハハ。
上京した地方の人が「渋谷のスクランブル交差点でよく人間同士が衝突しないものだ」と
ビックリしたと話していました。72歳の今でも、信号が変わった瞬間に先頭で飛び出して
誰にもぶつからずに渡り切る自信があります。中学から高校にかけてバスケットボールを
やっていたことと関係があるかもしれません。当時のバスケットは極端に人と人の接触を
禁じていましたから、向こうから来る人間を避けるのはうまいのです。
今のバスケットは立派な“格闘技”ですが。

私がやっていたのは大したバスケットではありません。
中百舌(ナカモズ:大阪の地名)の土のコートや、今年は中止になりましたが、3月場所を
開催する大阪府立体育館でプレーしたことはあるものの、弱小校で、いつも、1,2回戦で
負けてしまうような学校でした。
それでも、兄の影響で始めたときはかなりのめり込みました。毎日、ボールを持ち帰って
ドリブルをしたり、ボールを手に吸いつかせる練習をやったりしました。ボールに塗る
保革油のにおいが家の中にいつも漂っていたものです。
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そのころ、この競技をやると“バスケットシューズ”を履けるのが嬉しかったものです。
一般的に、スポーツをするときの靴は“運動靴”と呼ばれていました。野球、サッカー、
ラグビーなどの靴はスパイク・シューズと呼びましたが、そのほかは、すべて運動靴です。

バスケットボールはほかと違ったのです。バスケットシューズ…競技の名前をかぶせた
“独立”した、“他を寄せ付けない”呼び名です。ハハハ。
形も独特でした。かかとの部分が深くて、“特別”という感じがしました。
中でも、コンバース製の“ALL STAR”はあこがれのシューズでした。
まだ、日本には輸入されていなかったと思いますが、雑誌などで見たのでしょうね。
ほしくて、ほしくてたまりませんでしたが、実際に履いていたのは日本製で、布の部分と
底のゴムの部分が破れやすくて、しょっちゅう自分で縫っていました。タコ糸で。
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今は、動きの特性に合わせて、競技ごとにたくさんのシューズが作られています。
しかし、バスケットシューズという言い方はあまり聞きません。かかとの部分がかなり
浅いものをはいている選手もいるようです。ハーフカット、ローカット…あんなものは
私たちが愛情と誇りをこめて呼んだ“バッシュー”ではありません。ハハハ。

芦屋住まいをしていたとき、散歩用にと神戸のABCマートでコンバースのバッシューを
購入しました。店の片隅で見かけたときに、懐かしさのあまり買ってしまったのですが、
実際に履くことはあまりなくて、靴箱の奥に収まっていました。しかし、このところ、
旅行のときなどに愛用しています。足を入れてひもをギュッと結ぶと、“体が軽くなった”
ような気がするからおかしなものです。ハハハ。

バスケットをやっていたから、人にぶつからない自信がある、と書きましたが、実際は
少し怪しくなってきました。たとえば、「すり抜けられる」と判断したかべと塀の間で、
そのどちらかに肩をぶつけて愕然とすることがあります。ハハハ。
たんすの角に自分の脚の小指をぶつけて痛い思いをすることは、若い人にだって経験が
あると思います。しかし、脳が「行ける」と判断したのにぶつけてしまう、というのは
明らかな、“老化現象”でしょうね。ショボン。

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皆さんのご協力のおかげでランクは少しずつ上がっています。
「スポーツ全般」が4位に上がりました。1~3位は次の通りです。

1.フィギュアスケートYoutube
2.イチゴの戦い Keep in Smile
3.フィギュア真央ちゃん大好き動画ブロ

1位と3位はフィギュアスケート関係の動画、「イチゴ…」はハワイでサーフに熱中する
女性のブログのようです。とても抜けそうにありません。ハハハ。
どのカテゴリーも上位に行けばいくほど“業者”っぽいブログが多くて…。

シコシコ、頑張ってみます。

by toruiwa2010 | 2011-02-22 07:27 | スポーツ全般 | Comments(9)
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春の高校バレーが始まっています。
去年までは3月下旬に開かれていましたが、今年から1月に繰り上げられました。
この結果、従来は出られなかった3年生が出られるようになったのが大きな変化です。
進学する選手は大変ですが、出場する大会数が増えることで3年生のモチベーションは
確実に上がるはずです。名称も、これまでの選抜優勝大会から選手権に変わりました。
響きがいいですね。

1964年東京オリンピックで一気に火がついたバレーボール・ブームに目をつけたテレビは
日本リーグの中継に熱を入れました。フジテレビも例外ではありません。
視聴率が割合よかったこともあって、やがてそこで活躍することになる高校生の大会を
作ろうという機運が盛り上がりました。

詳しいことは分かりませんが、当時の日本協会の前田豊会長・松平康隆専務理事コンビが
フジテレビを巻き込んだのだろうと想像しています。二人とも、土日に声を聞かない日は
ないというぐらいテレビで解説をしていて話がうまいのですから。ハハハ。
決して悪い意味で言っているのではありません。ご両所ほど、バレーボールをメジャーに
するために力を注いだ人はいないだろうと思います。そして、スポーツ・コンテンツが
少ないフジテレビにとっては“渡りに船”でもあったはずです。
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1970年に始まった大会は、視聴率こそ低調でしたが、会場の熱気はものすごくバレー熱を
広げるのに大きく貢献したのは間違いないところでしょう。
入社7年目、経験が求められる野球の実況にはまだ手が届かなかない私のような若手にも
大きなチャンスを与えてくれました。日本リーグ、春高バレーの実況によって、局内で
少しは認められるようになったのですから、ありがたい存在でした。

選手とのコミュニケーションがうまくとれず、野球の取材に手こずっていた私にとって
高校バレーほど取材しやすかった種目はありませんでした。
監督に連絡さえしておけば、望む情報はほとんどすべて手に入りました。
体育館に入って監督に挨拶をするとすぐに「おい、全員集合!」と練習中の選手に声を
かけて集め、「フジテレビの岩佐アナウンサーさんだ。春高の取材に見えた。ご挨拶を」と
紹介してくれます。

キャプテンが「気をつけ、よろしくお願いします!」と大声で言うと全員が声をそろえて
同じことを“合唱”します。学校によっては、そういうときや監督が注意を与えるとき、
ずっと直立の上つま先立ちになっていることもあります。学年が低い生徒は辛そうですが、
すべてが強化につながっているのです。
練習が終わるころになると、監督が「誰かに話を聞きますか?」とわざわざ聞いてくれて、
始まる前と同様「気をつけ、ありがとうございました!」のあと、「○○と△△と□□は
岩佐さんからお話があるから残れ」と言ってくれます。
至れり尽くせり。プロ・スポーツでは絶対にあり得ません。ハハハ。

いいことづくめのようですが、ときどき困ることもありました。
取材が入ると極端に張り切ってしまう監督がいることです。
レシーブの練習では、極端に遠い所に強いボールを打ち込んだり、ミスを続けた選手を
泣くまで怒鳴りつけたりします。思わずアドレナリンが出てしまうのでしょう。たぶん、
厳しさが普段の数割増しになっていたはずです。ハハハ。
私たちが取材に行くのは、監督は歓迎しても、選手にとっては迷惑だったかもしれません。

全国大会ですから、ディレクターやアナウンサーが足りず、ネット局の応援を求めます。
アナウンサーなら、誰だって決勝をしゃべりたいものです。
しかし、私はとうとう決勝の実況はやれませんでした。
当時、大阪の大商大付属が強く、地元・関西テレビの塩田アナが男子決勝を、女子決勝は
フジの大先輩・山田アナが担当しました。
準決勝までで仕事が終わると、次の土・日は後楽園で巨人の最後のオープン戦を見るのが
私の定番のスケジュールでした。

バレーボールの解説者は“達者な人”が多かった記憶があります。
松平さんは“名物男”でした。男子監督として見事な実績を残しただけでなく、いつも、
バレー人気を盛り上げるための努力を惜しまない人でした。解説者として放送席に座ると
外国選手に“バルカンの大砲”など、親しみやすいニックネームをつけたり、“Aクイック・
Bクイック”、“時間差攻撃”などの技に名前を考えたり、バレーの面白さを伝えることに
一生懸命でした。明るいキャラクターとともに欠かせない存在だったのです。
ただし、話好きだけにしゃべり出すと止まらない“欠点”と、頭の回転が速い人なので、
こちらの未熟さを見抜かれるのではないかという“怖さ”がつきまといました。ハハハ。
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女子の試合の放送では生沼スミエさんと数えきれないほど組みました。
日立製作所や日本代表として大活躍し、のちに初めての代表監督にもなった生沼さんは、
いわゆる“美人アスリート”のハシリだと言っていいでしょう。ご本人は、そんなことを
まったく鼻にかけることなく、記憶する限りでは化粧もほとんどしていませんでした。
サッパリとして、どちらかと言えば男っぽい性格でしたから、仕事で付き合うのに気を
使うことはいっさいありませんでした。

キャリアの中で彼女ほど呼吸が合った解説者5人の中に入ります。うまい下手ではなく、
彼女と組んだ仕事を終えたあと「今日は失敗した」と思った記憶がないのです。
女性解説者にはありがちなことですが、選手に関してネガティブなことが言えないという
マイナス点を除くとコンビを組んで最高に仕事が楽しめる人でした。

古いビデオを見ていると、70年代の実況では、「…東京都体育館であります」「…の対戦で
ございます」調のしゃべり方になっているのに驚きました。
今 聞くと、とても違和感がありますが、当時はそれが普通だったのです。


今日は4時から準決勝が放送されます。
この時期に繰り上げた結果、レベルも上がっているようです。
40年前にかえって、黄色い歓声がこだまする会場で高校生たちが必死にボールを追う姿を
久しぶりに見ることにしましょう。

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新年からこちらで“営業”しています。
新参者ですが、よろしくお願いします。
これまではYAHOO!でやっていました。
古い記事は http://bit.ly/ayAddJ でどうぞ。


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by toruiwa2010 | 2011-01-08 09:11 | スポーツ全般 | Comments(9)