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岩佐徹のOFF-MIKE

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フジテレビ:F1中継始末記~自分的傑作w選~18/03/18

F1 地上波撤退!

25年たつんだものなあ~( 2012/02/23 初出 )

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久しぶりでフジテレビ時代の仲間と会食しました。

長い付き合いの上に気が合う連中なので大いに盛り上がりました。

仕事もたくさん一緒にやりました。懐かしい思い出がいっぱい

あります。

メンバーの中にスタート当時のF1制作のトップ2がいました。

1人は当時 新進気鋭のMディレクター、2人目は業界最高の

Yタイムキーパーです。

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私がフジテレビでアナウンサーを辞めて報道に異動したのは

1982年でした。2年後、念願が叶ってスポーツ部に移りました。

有難いことに、数人のディレクターがアナウンサーとしての

私の能力を買ってくれていました。

スポーツ部員のまま 実況をやる方法はないものかと、いろいろ

トライしてくれましたが、アナウンス部の反対が強くて失敗に

終わりました。


「プロ野球ニュース」のデスクや野球中継に提供するデータの

制作などで退屈な日々を送っていた私をMが引っ張り出して

くれたのは1986年のことでした。

毎週月曜日の「プロ野球ニュース」に 海外スポーツの情報を

伝えるコーナーを企画し、司会にモデルのセーラ・ローウェル、

コメンテーターに私を推薦してくれたのです。

アナウンス部の強い抵抗も抑え込んでくれました。本人の耳に

入ると厄介なのでこっそり書きますが、恩人です。ハハハ。


コーナーで紹介した競技種目の一つに日本ではあまり知られて

いなかったF1がありました。

番組制作と並行してMは精力的に動き回っていたようです。

そのとき、F1の放映権をどの局も持っていないことを知って

獲得したいと考えたのです。

若かったMは野球やバレーは先輩がたくさんいるので自分が

腕を振るえるようになるのは先のことだと分かっていました。

先輩たちが手を出していない新しいイベントを獲得できれば、

優先的にやれると考えたのでしょう。


そうは言っても、若い自分だけではどうにもならないことも

分かっていますから、大物・Oプロデューサーを動かしました。

事業部から移ってきたベテランです。私も含めて部員の間での

評判はあまりよくなかった男ですが、Mは気にも留めません。

ほしいものを手にすればいいのですから。ハハハ。 


FOA(当時のF1統括組織)のバーニー・エクレストンが日本に

来たのは1986年の秋でした。

来日の目的は ジャパンGPを鈴鹿で開催することが決まり、

その発表のためですが、放映権について各局と交渉する狙いも

持っていました。

TBSNHKを初め、多くの局のプロデューサーが彼が宿泊する

パレス・ホテルに雁首を揃えました。1局ずつ部屋に入って

交渉したのです。

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この時代、日本のテレビ局のスポーツ担当者(役員・局長)を散々

悩ませ 苦しめた外国人が3人いた、と書いておきましょう。

私の目にはスポーツ界の“3悪人です。

プリモ・ネビオロ(世界陸連会長:イタリア人)、ルーベンス・

アコスタ(世界バレーボール連盟会長:ブラジル人)、そして、

エクレストン(イギリス人)です。


好視聴率が見込める種目のトップだったこの3人に、日本の

テレビは散々いたぶられ、いいように金をむしり取られました。

夜ごと ワラ人形に五寸釘を打ち込んでいたプロデューサーも

何人かいたはずです。ハハハ。


ご承知の通り、権利はフジテレビが獲得しました。

直接 交渉したのはOプロデューサーでしたから彼の手柄

言っていいでしょう。しかし、交渉が成功した最大の理由は

彼の手腕以外のところにありました。

それは、当時 フジテレビの実質的トップだった鹿内春雄氏から

契約金額や年数についての決定権を与えられていたことです。

他局の“交渉人”たちは話が進むたびに上司の判断を仰ぐための

時間が必要でしたから差は歴然だったのです。

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当時のフジテレビは今と大違いで“絶好調”でしたから 資金は

潤沢だったはずです。

ヨーロッパではF1中継のホスト・ステーション(各開催国で

放映権を持っている局)といえば一定の敬意の対象になると

聞きました。あちらでは、F1文化と考えるからです。

父・信隆氏は箱根に美術館を建てました。春雄氏のDNAにも

文化にあこがれる血がとうとうと流れていたのでしょう。

「いくらでもいいから獲れ」と命じたようです。


Mは中継立ち上げの1997年からめでたく担当ディレクターに

なりました。本人は「ボンネットも開けたことがないほど車には

興味がなかった」と言いますが、とことん勉強するタイプなので

いい番組を作ることに貢献しました。

ただし、諸事情により、中継2年目に新しく就任した2代目

Iプロデューサーがあまりにもお粗末でした。気に入らない

MIはずいぶんいじめられました。ええ、私です。ハハハ。


プロデューサーのなんたるかを知らないままなってしまった

私は「あれはどうなってる、これはどうするつもりだ?」と

翻弄されました。予算委員会で野党の激しい集中砲火を浴びて

困惑していた田中直紀防衛大臣のごとく。ハハハ。

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タイムキーパーの本来の仕事は、番組を作っていく中で時間を

管理することです。しかし、Yはそこに留まらず“先を行く”

仕事をしました。すべての素材を頭に入れ、ディレクターが

ほしいと思う映像を口にすると、どのテープのどこにあるかが

すぐに分ってしまうという“ツワモノ”でした。

ディレクターにとってこれほど強力な助っ人はないでしょう。

しかし、よちよち歩きの新米にとっては“煙たい”存在だったに

違いありません。彼女の“愛のむち”に鍛えられたディレクターが

スポーツ部にはごろごろいるはずです。ハハハ。


あれから25年が過ぎました。

フジテレビは地上波のF1中継から撤退しました。

テレビはいま冬の時代に向かってまっしぐらです。バブルも

絶好調も過去の話です。調子がいいときは、視聴率も気にせず、

金はいくらかかってもいい、という姿勢でいい番組を作って

いられましたが、もう そんな時代ではないのです。

聞いた限りでは、ほかの地上波も手を挙げていないようですが、

むしろ当然の話です。

フィギュアのときにも、まるで「採算を度外視してでも我々の

理想とする中継をやれ」と言わんばかりの大ブーイングが一部の

視聴者から浴びせられましたが、テレビにも事情があるんです。

カンベンしてやってよ。ハハハ。


by toruiwa2010 | 2018-03-18 08:13 | 自分的傑作選 | Comments(0)
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