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岩佐徹のOFF-MIKE

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2197「拠点を移しました ~いつも突然ですが…~」09/05/12

東京で中学2年までを過ごしたあと、父親の仕事の都合で関西に移ったのは1953年です。

翌年、府立春日丘高校に進みましたが、本格的に始めたバスケットボールの激しい練習に

身体がついていけず、肋膜炎で1年、肺結核で1年を棒に振り、1957年の春、ようやく

3年かかって高校1年の課程を修了したのです。

経験しないと分からないでしょうが、その年齢で2歳違うと話がまったくかみ合わず、

話し合える友達のいない“孤立状態”で高校生活を送っていました。


久しぶりに上京して中学時代の友人たちに会ったのは、なんとか自分をなだめすかして

高校2年の1学期を終えたあとの、1957年・夏のことです。4年半ぶりでした。

私たちが通った明星学園は井の頭公園のそばにある私学で、制服のない、自由な雰囲気で

学べることが大きな魅力でした。そんな校風のせいか、年齢にくらべ、妙に“大人びた”

考え方の生徒が多く集まります。

旧交を温めているうちに、私の頭に、ある“アイディア”が生まれました。

「明星に戻ったら、明るい気持ちになれるのではないか?」


父に“思いのたけ”をつづった長い手紙を送りました。初めてのことです。

すぐに返事はくれませんでした。帰宅から数日後、OKがでたときの喜びはたとえようが

ありません。たまっていた“ストレス”が一度に解消するのが分かりました。


新聞記者だった父の給料は、もともと、そう多くはなかったはずですし、部下をつれて

飲み歩くのが好きな人でしたから、“仕送り”は無理だったのでしょう。

東京での生活費を負担してくれたのが父ではなく、中小企業で働いていた、一人暮らしの

長兄だったことを知ったのは相当あとになってからでした。“世間知らず”もいいところです。


大学1年の秋、ふたたび東京に職を得た父が戻ったために、兄が私の面倒を見てくれたのは

1年半ぐらいだったと思います。

期間(金額)の問題ではありません。常に節約を心がけ、ぜいたくなことを一切しない兄が

少ない給料の中から出してくれた金は何物にも代えがたいものがあります。

私が慶応に進み、アナウンサーになり、普通の人が味わえない、この仕事ならではの喜びを

味わうことが出来たのも兄のおかげです。

その有難さを本当に感じるようになったのは、恥ずかしながら50代になってからだった

でしょうか。遅すぎて申し訳ない話です。


私との年齢差は14…現時点では15歳の差があります。

3月で85歳になった兄は、2003年に亡くなった母のお骨を預かり、芦屋のマンションで

一人暮らしを続けています。

母の死後は、年に数回、京都方面に旅行をするたびに芦屋まで足を伸ばして一緒に食事を

していますが、足腰もしっかりして、いたって元気です。

しかし、視力がとても悪く、テレビも画面に顔を近づけないと見えない状態です。


2月、京都へ出かける2日前に電話をしたところ、何度かけても出ませんでした。

ジンガロ公演を見に行った日で、家を出る前にもかけましたが、応答がありません。

気が気ではありませんでしたが、帰宅後、すぐにかけると元気な声が返ってきました。

心のそこからほっとしましたが、“間もなく(その時点で)85歳”という現実がズシンと

胸に響いてきました。いつ何が起きてもおかしくない年齢です。


いろいろ考えました。

妻と相談し、兄とも話をした結果、この連休中に、とりあえず私が芦屋に移って、兄との

同居を始めました。日に何度も散歩に出かけるなど元気ですが、何があっても対応できる

ようにしておくことで、私も兄も“安心感”を得られます。

面倒を見てもらったあの日から、およそ半世紀がたちました。本当に“遅すぎる”のですが、

今の私に出来るせめてもの“恩返し”です。


そんなわけで、生活の拠点は関西に移ったということです。

東京にはちょくちょく帰ることになると思いますが。


まだ“試行錯誤”中で落ち着きません。

このままうまく続けていけるのか? 私が来たことで兄の気がゆるんでしまわないか?

一人暮らしに慣れていた兄にストレスがたまらないか? 心配のタネはつきません。ハハハ。


芦屋での生活については、いずれリポートします。


by toruiwa2010 | 2009-05-12 11:38 | Comments(0)
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