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岩佐徹のOFF-MIKE

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2232「バレーボール最終予選(ブルガリア)」09/06/25

1980年のオリンピックはモスクワでの開催でした。初めて共産圏で開かれるオリンピック…

どんなものになるのか興味津々でした。

当時の日本では、東京オリンピック後に盛り上がったバレーボールのブームが続いていて、

オリンピックへの出場は“当然”と考えられていました。しかし、男子チームは出場の

権利をかけた大会でことごとく獲得に失敗し、同様に、まだ出場権を持っていない国々が

集まる“最終予選”に最後のチャンスを残すだけ、という状態に追い込まれていました。



19801月、場所は、まだ鉄のカーテンの向こう側だったブルガリアの首都、ソフィアです。

実況を命じられた私は、先行して収録の準備をしていたプロデューサーを追って、一人で

成田を飛び立ちました。

当時尾ブルガリアはまだ旧東欧圏で、大きな航空会社は乗り入れておらず、まず、フランク

フルトまで飛んだあと、ブルガリア国営のバルカン航空に乗り換えます。

あとにも先にも、あれほど“おんぼろ”の飛行機には乗ったことがありません。ハハハ。


肘掛が“ぱかぱか”でした。分かります? 

隣の席との間の肘掛が上がるようになっているのはよくあることですが、このケースは

通路側の肘掛まで“自由”でした! つまり、壊れて、ぶらぶらの状態だったのです。

テーブルもしっかり固定されていませんでした。「とにかく、無事にソフィアに着いてくれ」と

祈るような気持ちでした。ハハハ。


CAも、典型的なスラブ女性といえばいいのでしょうか、どっしりと、重心はあくまで低く、

思わず、「お母さん!」とすがりつきたくなるような見事な体型で、もちろん、“愛想”など

まったくありません。

安定飛行に入ったところで、コーヒーカップとティーバッグ、紙の皿が配られました。

しばらくして戻ってきた彼女はおもむろに、そして厳かに、太いソーセージを1本ずつ

皿の上に置いていきました。それが、“食事”です。


いったん、カーテンの奥に引っ込んだ彼女がふたたび姿を見せたとき、その手にはアルミの

サモワールがありました。これはすぐに「ああ、ティーバッグにお湯を注いでくれるわけだ」

と分かりました。

しかし、近づいてきたとき、よくよく見ると、その取っ手には包帯が巻かれているでは

ありませんか!!


ものの豊かな国から来た、贅沢に慣れた者には、厳しい“しめつけ”の中で生きている

ブルガリアの“国情”がよく分かりました。


ソフィア空港には“無事に”着きました。

しかし、その瞬間から私の“緊張”が始まりました。

先に現地に入ったプロデューサーから来たファックスに「入国の際、面倒なことにならない

ように、10ドル札をパスポートにはさんで係官に渡すほうがいいかもしれない」と書かれて

いたからです。

“いいかもしれない”って…。はっきり指示してよ。

「判断は自分でしろ。どうなっても知らないよ」と言われているみたいで、この上なく

不安でした。ハハハ。


…結局、“はさみ”ました。無表情でドルをしまいこんだ係官が簡単な質問をしただけで

スタンプを押してくれたときは、心からほっとしました。


プロデューサーと合流したのは、市内のニューオータニ・ホテルでした。

今もあるのかどうか知りませんが、オータニ系のホテルで、デザインも四谷にある建物と

よく似ていました。

最上階にドルだけが通用するカジノがあったことを覚えています。外国人ばかりではなく、

地元の人と分かる客も大勢いて普通に楽しんでいました。

散歩に出たたときに、ホテルのすぐそばの八百屋で“腐りかけ”のジャガイモが売られて

いたのを見てショックを受けたあとだったので、「どの国にも、陰で金儲けしているこういう

“人種”はいるもんだなあ」と複雑な感慨を覚えたものです。


ホテルの通路に“インテリア”として飾ってあった

ワインのボトルに強く惹かれました。素朴な中に、どこか“しゃれた”

センスを感じさせるデザインだったからです。

「売ってくれないか?」とマネジャーに掛け合いましたが、

どうしても「Yes」とは言ってくれません。

「ここに行けば買える」と、メモはくれました。

ほとんど英語が通じない街へ出かけて行き、何とか手に

入れたのがこれです。

ホテルにあったのはふたも陶器で出来ていましたが、その

ワイン・ショップで売っていたものは、コルクでした。

帰国から10年以上たってから、開けてみましたが、妻が

なめてみると“まずい”と言うので結局、一滴も飲まないまま、

中身は捨ててしまいました。

もともと、デザインに惚れて買ったのですから、未練はありません。


もちろん、“定番”のバラ香水人形とバラから作った香水も。


ちなみに、このとき、日本男子は無残な負け方をして出場権をとることはできませんでした。

政治的な理由で日本はこのオリンピックをボイコットしましたから、結果的には、勝っても

負けても関係ありませんでしたが。


そして、この大会の放映権は、テレビ朝日が“抜けがけ”をして単独契約を結び、業界から

総スカンを食う大きな問題になりました。1977年ごろのことだったと思います。

たしか、急いで実況アナウンサーを育成しようと、77-78年にたくさんの男性アナを採用して

いたはずですが、そのとき入社した“スポーツ・アナ”は一人も残っていないようですね。
by toruiwa2010 | 2009-06-25 14:01 | Comments(0)
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