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岩佐徹のOFF-MIKE

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終戦前夜の毎日新聞編集局~父・岩佐直喜のコラム~18/08/14

古い写真が一枚。

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いかにもお屋敷という家の門前に人が集まっています。

サーベルを下げた巡査の横に立つソフト帽の男は父です。

日付は昭和7515日です。歴史に詳しい方はそれだけで

この先、どういう話になるかが分かるでしょう。


世に言う“五・一五事件”の現場の一つ、将校たちに襲われ

射殺された犬養毅首相の私邸前です。

東京日日新聞(現毎日)の記者だった父は神宮で学生野球を

見たあと、会社に上がって事件を知り、社会部の記者と

ともにここに駆けつけたそうです。

本来は取材活動をしない整理部の記者でしたが、現場を

見るのも勉強だと考えたようです。

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”五・一五“をはさむ数十年は激動の時代でしたから、

その後も父はたくさんの大事件に遭遇しています。

大きな戦争を始め、焼け野原の中で敗戦を迎えました。

編集幹部としてどんな気分で終戦の日の紙面を作ったか?

73年後の夏、それを綴ったコラムに出会いました。



ことしもまた、終戦記念日を迎えた。二十年――。

あの日はもうふた昔も前のことになってしまったのである。

だが、私の脳裏には今もその前夜の編集局の光景が鮮明に

蘇ってくる。昭和二十年八月十四日。当時、私はふたたび

毎日新聞東京本社の整理部長の職にあった。

無条件でポツダム宣言をのむかあくまで国体維持を条件と

するかをめぐる最後の御前会議が開かれたその日、まず、

天皇の聖断によって無条件降伏することになったという

情報がもたらされ、やがて終戦の詔書が私たちの手もとに

届いたのは、夜ももう遅い時間だった、と記憶する。


「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ

非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ

茲ニ忠良ナル汝臣民ニ告ク…」


整理部のデスクには、私のそばに副部長の大西隆君(現在

病気静養中)や古谷剛正君らがいた。

相談しながら、見出しがきまった。

 

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「聖断拝し大東亜戦終結

   時局収拾に畏き詔書を賜ふ」

 「四国宣言を受諾

   萬世の太平開かん

    新爆弾、惨害測るべからず」


翌日の正午、玉音放送と同時に配布を許可されることに

なっていたその新聞づくりの作業は、しごく平静に進んだ

ような気がする。終戦は時間の問題だという気持ちが

前々から私たちの心を支配していたためかもしれない。

あるいは、敗戦の実感が本当にはまだわいてこなかった

ためかもしれない。


さらに、事柄が事柄だけに、さすがに記者的な競争意識が

このときばかりは押し殺されていたためかもしれない。

とにかく、大事件の時にいつもわれわれを包む、あの

熱っぽい興奮はなかった。冷静に、この歴史的な紙面の

作製に取り掛かることが出来たように、私は憶えている。

古谷君も先日、「動揺といったものはまったくなかった。

やはり、近いうちにとうぜんこの日が来るということが、

わかっていたからでしょうね」といっていた。


しかし、若い人たちは、とうぜんのことながらガックリと

力を落としていた。空襲警報下、薄暗い工場では大西君が

自ら大組みに取り組んでいた。葬送曲の伴奏で大組みを

しているようなものだった。ことばを発するものがない。

活字のゲラを指して作業をすすめる。


午前二時ごろ降版がすむと、整理部員も工場の人たちも、

その場に倒れ込むようにして、寝入ってしまったもので

ある。この瞬間、敗戦の重荷が、ぐっとのしかかって

くず折れたのだ。私は安全灯を首からぶらさげて、

編集局から印刷局へと社内を見回った。そうしながら、

いろいろの思いが、胸のうちを去来した。もちろん、

これからの日本、私たちの生活、そして新聞づくりに

対する不安がなかったわけではなかった。


だが、心の中でうずくのは、やはり、自由な時代が

やってくるのだという喜びであった。

長い間、軍部独裁に押さえつけられてきた新聞。

米軍が来て、どういう政策を実施するかはまだ

予想すべくもなかったが、ともかく戦争は終わった

のである。少なくとも、時間はかかるだろうが、

ほんとうのことが言える自由な新聞づくりが出来る

時が来るだろう、いや来るに違いないと思いながら、

疲れ果てて眠りこける人びとの間を私は縫って

歩いたのであった。

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…ポツダム宣言を受け入れて日本が前面降伏することを

告げる天皇陛下の“玉音”がラジオで放送されたのが

815日でした。皇居前の、玉砂利が敷かれた広場には

多くの国民が詰めかけて土下座していました。

16日付の毎日新聞はその写真をトップで大きく載せて

います。2面しかない貴重な紙面の多くを使っています。

整理部長としてのモットーは”国民の思いに寄り添え“

だったと聞いていますが、この“編集”にそれが表れて

いる気がします。  キャプションは…


“忠誠足らざるを詫び奉る”


是非はともかく、それがこの日の日本人の気持ちだと考え

鈴木内閣の総辞職、阿南陸相の自刃よりも大きく扱う

ことで自身の“思い”も込めたのでしょう。私は"是"とします。


ちなみに、朝日()、読売報知(現読売)

815日、16日の紙面はこうなっています。

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あの日から73年の時が流れました。

父はこの年の12月、待命休職になりました。

”休職”と言っても復職の見込みはなかったそうです。

占領政策が進む中で社内に“民主化運動”が起きました。

朝日、読売にも同じような動きがあって、それは、

経営者や幹部記者の戦争責任を問う若い人を中心と

する運動のようです。


勝てるはずだった戦争に負けた…戦後の日本を虚無感が

覆い、若者の不満や怒りは“旧世代”に向けられました。

新聞社では「戦争に協力したじゃないか」と糾弾されました。

大いに不満だった父ですが、大きな“うなり”に抗しきれず、

会社を去ることになったようです。

誰に非があるのかは分かりません。

ただ、激しい時代だったんだなあ…と。


by toruiwa2010 | 2018-08-14 07:45 | 岩佐徹的考察 | Comments(2)
Commented by 老・ましゃこ at 2018-08-14 23:37 x
国会図書館で求められた資料ですね…新聞紙面の編集から受け取るものがあるという事、三紙の例から戦後生まれの私にも少しく解るような気がしました。
Commented by toruiwa2010 at 2018-08-15 06:31
老・ましゃこサン、おはようございます。

父親が作った紙面…初めて見て
特別の感慨があります。
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